国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
鰐淵寺境内
ふりがな
:
がくえんじけいだい
鰐淵寺境内(浮浪滝と蔵王堂)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古代~中世
年代
:
西暦
:
面積
:
2879482.18 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
26
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
島根県
所在地(市区町村)
:
島根県出雲市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
鰐淵寺境内(浮浪滝と蔵王堂)
解説文:
詳細解説
出雲市北部,島根半島西部の北山(きたやま)山系の山中に位置する,中国地方を代表する山林寺院である。もともと鰐淵山(がくえんざん)といい,古代以来,浮浪(ふろう)滝(のたき)を中心とする山林修行の場として発展した。平安時代には蔵王(ざおう)信仰の拠点として栄え,『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(平安時代末期)に「聖(ひじり)の住所(すみか)」として謡われる等,修験の場として知られていた。11世紀後半,天台宗延暦寺(えんりゃくじ)の勢力下に組み込まれ,12世紀後半に本格的な寺院浮浪山(ふろうさん)鰐淵寺として成立したと考えられる。中世には,境内に多数の僧坊を構えて繁栄し,14世紀にはそれまで北院・南院に分かれていた寺内が和合・統一し,根本堂が創建された。また,出雲(いずも)大社の祭事において鰐淵寺僧が大般若経転読(だいはんにゃきょうてんどく)を行う等,大社と強い結び付きを有するようになった。戦国時代以降,戦国大名の介入によって寺領は次第に侵食され,近世には大社祭礼への関わりも途絶して,寺勢は衰えたが,現在も中世以来の寺院景観を良く残し,江戸期の伽藍建築をはじめ,多数の寺宝を蔵する。発掘調査等の結果,中世期の繁栄を物語る遺構・遺物が良好に残存していることが判明した。中国地方における山林寺院の形成とその中世的展開,及び近世期の変容を理解する上で貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
鰐淵寺境内(浮浪滝と蔵王堂)
鰐淵寺境内(根本堂)
鰐淵寺境内(釈迦堂)
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鰐淵寺境内(浮浪滝と蔵王堂)
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鰐淵寺境内(根本堂)
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鰐淵寺境内(釈迦堂)
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解説文
出雲市北部,島根半島西部の北山(きたやま)山系の山中に位置する,中国地方を代表する山林寺院である。もともと鰐淵山(がくえんざん)といい,古代以来,浮浪(ふろう)滝(のたき)を中心とする山林修行の場として発展した。平安時代には蔵王(ざおう)信仰の拠点として栄え,『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(平安時代末期)に「聖(ひじり)の住所(すみか)」として謡われる等,修験の場として知られていた。11世紀後半,天台宗延暦寺(えんりゃくじ)の勢力下に組み込まれ,12世紀後半に本格的な寺院浮浪山(ふろうさん)鰐淵寺として成立したと考えられる。中世には,境内に多数の僧坊を構えて繁栄し,14世紀にはそれまで北院・南院に分かれていた寺内が和合・統一し,根本堂が創建された。また,出雲(いずも)大社の祭事において鰐淵寺僧が大般若経転読(だいはんにゃきょうてんどく)を行う等,大社と強い結び付きを有するようになった。戦国時代以降,戦国大名の介入によって寺領は次第に侵食され,近世には大社祭礼への関わりも途絶して,寺勢は衰えたが,現在も中世以来の寺院景観を良く残し,江戸期の伽藍建築をはじめ,多数の寺宝を蔵する。発掘調査等の結果,中世期の繁栄を物語る遺構・遺物が良好に残存していることが判明した。中国地方における山林寺院の形成とその中世的展開,及び近世期の変容を理解する上で貴重である。
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詳細解説
鰐淵寺境内は、出雲市北部、島根半島西部の北山山系の一角、日本海から内陸約3kmの山中に位置する山林寺院である。鰐淵寺はもと鰐淵山(がくえんざん)といい、古代以来、境内地の南、浮浪滝(ふろうのたき)を中心とする山林修行の場として発展した寺院である。 寺伝では、推古天皇2年(594)智春上人の開基とされ、寺号は、智春が滝のほとりで滝壺に落とした閼伽(あか)の器を鰐(わに)がくわえてきたことに因むという。平安時代には蔵王信仰の拠点として栄え、仁平3年(1153)銘の石製経筒(重要文化財)には「鰐淵山金剛蔵王宝窟」とみえ、『梁塵秘抄』(平安時代末期)に「聖(ひじり)の住所(すみか)」として謡われる等、修験の場として知られていた。11世紀後半、天台宗延暦寺の勢力下に組み込まれ、本格的な寺院浮浪山鰐淵寺として成立するのは12世紀後半と考えられている。建暦3年(1213)、出雲国国富郷100町(国富荘)を得て経済的基盤を確立したが、その際、比叡山無動寺の末寺となっていた(『鰐淵寺文書』)。また建武2年(1335)には、後醍醐天皇から出雲国宇賀荘地頭職の寄進を受けている。 寺内は千手観音を本尊とする北院と薬師如来を本尊とする南院からなっていた。嘉暦元年(1326)に境内は火災を被ったが、その再建をめぐり、北院南院はそれぞれ北朝・室町幕府と南朝勢力を頼って対立し、寺内は混乱を極めた。その後、正平10年(文和4年 1355)に至り、寺僧122名(大衆89名、行人33名)連署による「正平式目」が定められて南北両院は和合、統一し、それまで別個に祀ってきた両院の本尊を左右に並べて祀る根本堂が創建された。また、鰐淵寺は平安期から中世にかけての神仏習合のなかで出雲大社(杵築大社)との関係を深め、大社の祭事において鰐淵寺僧が大般若経転読を行う等、大社と強い結び付きを有するようになった。 戦国時代には、戦国大名尼子氏、ついで毛利氏といった世俗権力が鰐淵寺に介入するようになって次第に寺領は侵食され、天正19年(1591)にはそれまでの約三分の一(935石)に減少し、元和2年(1616)以降は300石となった。また、大社との密接な関係にも変化が生じ、大社が神仏分離を実施した寛文度造替(かんぶんどぞうたい)(1661~1667)を契機に、鰐淵寺の大社祭礼への関わりは途絶した。僧坊の退転も進み、『雲陽誌(うんようし)』(享保2年<1717>)では僧坊が12坊となっていた。しかし、明治維新後もなお法統を今に伝え、根本堂・常行堂・摩多羅神社・開山堂・釈迦堂・蔵王堂といった江戸期の伽藍建築や旧松本坊(現本坊)が現存するほか、銅造観世音菩薩立像(重要文化財)をはじめ、絵画、書跡・古文書(『鰐淵寺文書』)、彫刻等、多数の寺宝を伝えている。 出雲市教育委員会では、平成21~23年度に島根大学が中心となって実施した鰐淵寺総合調査に参加するとともに、同22~26年度に境内の分布調査・発掘調査・石造物調査等を実施し、鰐淵寺の概要を解明した。境内の範囲は、江戸時代の木版絵図に遙堪峠(ようかんとうげ)、伊努谷峠(いぬだにとうげ)、般若坂(はんにゃざか)、心経院坂(しんぎょういんざか)の四つ堂で示され、現在の寺有地とほぼ一致しており、これが古来からの境内域と考えられる。中枢地域は、根本堂を核として伽藍や僧坊が建ち並ぶ鰐淵寺川左岸の傾斜地に広がる根本堂地区、その南方で鰐淵寺川右岸の浮浪滝地区、歴代住職の墓地等が展開する松露谷地区及び川奥地区から構成される。 分布調査では中枢地域を中心として122の平坦面を確認した。従来、正平10年(文和4年)の起請文に連署した僧89名を根拠に僧坊数を80前後と想定していたが、122のうち墓地や小規模平坦面を除く90箇所には堂舎や僧坊施設があった可能性を推定でき、従来の想定を裏付けた。また、従来、正平の南北両院和合以前は、南院が境外の大寺谷地域若しくは別所地域(境内)、北院が境外の唐川地域という離れた場所にあったと考えられていたが、両院ともに当初から根本堂地区に所在していたと考えるべきであることが明らかとなった。発掘調査では、和多坊跡で江戸期の礎石建物、石垣、池等を検出するとともに、同坊跡と等澍院(とうじゅいん)南地区、鰐淵寺川南地区で3期に及ぶ中世期の造成を確認した。鰐淵川の対岸にある松露谷墓地群・川奥墓地には急峻な斜面に平坦面が並び、五輪塔、宝篋印塔、無縫塔等、14世紀に造立が始まった墓石が残る。 鰐淵寺の時期変遷は三度の平坦面造成からみて、本格的に堂舎が整備された12世紀代、平坦面が拡張された13世紀後半から15世紀代、16世紀以降の三期に区分できる。また、開山堂周辺で11世紀以前に位置づけられる古代の須恵器が見つかっており、周辺丘陵が古代以来の鰐淵寺の拠点であると推測される。 出土遺物としては、分布調査で約9千点、発掘調査でも多量の遺物が出土した。多数の貿易陶磁器が含まれ、12~13世紀には越州窯青磁や青白磁の梅瓶、青釉陶器等の優品が、14~16世紀には、中国産や瀬戸・美濃焼の天目茶碗、備前・越前焼の貯蔵用具、卸皿・擂鉢・奈良火鉢、土師器の日常雑器等が見つかった。浮浪滝地区では、多数の中近世土師器のなかに、地鎮祭祀の可能性の高い遺物や経塚の存在を示唆する褐釉四耳壺も出土しており、祭祀空間の場であったことが推測される。また、同地区では、16世紀後半の京都系土師器が多量に出土した。尼子氏の介入を契機に、献杯儀礼が鰐淵寺で行われるになったことが考えられる。 このように、鰐淵寺境内は、山林修行や蔵王信仰の場として古代に開創し、中世には多数の僧坊を構えて宗教的繁栄を極め、出雲大社との密接な関係を有した、中国地方を代表する山林寺院である。現在も中世以来の寺院景観を残し、調査の結果、中世期の繁栄を物語る遺構・遺物が良好に残存していることが判明した。中国地方における山林寺院の形成とその中世的展開、及び近世期の変容を理解する上で貴重であることから、史跡に指定してその保護を図るものである。