国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
甲立古墳
ふりがな
:
こうたちこふん
甲立古墳(後円部調査風景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古墳時代前期
年代
:
西暦
:
面積
:
24617.35 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
26
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
広島県
所在地(市区町村)
:
広島県安芸高田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
甲立古墳(後円部調査風景)
解説文:
詳細解説
甲立古墳は,広島県の山間部安芸高田市東部の江の川(可愛川(えのかわ))とそれにつながるいくつかの河川の合流点に所在する。江の川は,下流において日本海側の石見地域とつながる,中国地方最大の河川である。
本古墳は墳長77.5mの前方後円墳で,葺石(ふきいし)が墳丘斜面のほぼ全面に施されている。後円部平坦面では墓坑1基を検出し,電気探査によると竪穴式石室や礫槨(れきかく)などの埋葬施設であると考えられる。墳丘からは円筒埴輪と器財形埴輪(きざいがたはにわ)が出土した。後円部平坦面には墳丘に沿って円筒埴輪等が樹立し,その内側には5個体の家形埴輪が一列に配置されていた。埴輪の特徴から古墳時代前期末,4世紀後半に築造されたと考えられる。
古墳は均整の取れた墳形,緻密に施された葺石,丁寧かつ精巧に製作された家形埴輪を有し,築造に畿内地域の勢力が深く関わっていたことが考えられる。4世紀後半は大和政権が朝鮮半島と対外交流において関係を深めた時期にあたり,本古墳が瀬戸内海と日本海を結ぶ内陸部に築造されたことによって,大和政権の対外政策のあり方を知ることができる。さらに,後円部での埴輪群は当時の葬送儀礼のあり方を知ることもできる。古墳時代前期の政治や交通そして葬送儀礼のあり方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
甲立古墳(後円部調査風景)
甲立古墳(前方部葺石検出状況)
甲立古墳(後円部出土家形埴輪)
写真一覧
甲立古墳(後円部調査風景)
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甲立古墳(前方部葺石検出状況)
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甲立古墳(後円部出土家形埴輪)
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解説文
甲立古墳は,広島県の山間部安芸高田市東部の江の川(可愛川(えのかわ))とそれにつながるいくつかの河川の合流点に所在する。江の川は,下流において日本海側の石見地域とつながる,中国地方最大の河川である。 本古墳は墳長77.5mの前方後円墳で,葺石(ふきいし)が墳丘斜面のほぼ全面に施されている。後円部平坦面では墓坑1基を検出し,電気探査によると竪穴式石室や礫槨(れきかく)などの埋葬施設であると考えられる。墳丘からは円筒埴輪と器財形埴輪(きざいがたはにわ)が出土した。後円部平坦面には墳丘に沿って円筒埴輪等が樹立し,その内側には5個体の家形埴輪が一列に配置されていた。埴輪の特徴から古墳時代前期末,4世紀後半に築造されたと考えられる。 古墳は均整の取れた墳形,緻密に施された葺石,丁寧かつ精巧に製作された家形埴輪を有し,築造に畿内地域の勢力が深く関わっていたことが考えられる。4世紀後半は大和政権が朝鮮半島と対外交流において関係を深めた時期にあたり,本古墳が瀬戸内海と日本海を結ぶ内陸部に築造されたことによって,大和政権の対外政策のあり方を知ることができる。さらに,後円部での埴輪群は当時の葬送儀礼のあり方を知ることもできる。古墳時代前期の政治や交通そして葬送儀礼のあり方を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
甲立古墳は、広島県の山間部安芸高田市東部に所在する菊山の南東側山腹部、江の川(可愛川(えのかわ))とそれにつながるいくつかの河川の合流点に位置する。これらの川を下ると日本海側、石見地域につながっており、そうした地域を意識した内陸交通の要衝に立地している。 本古墳は平成20年に存在が知られることとなり、その後、安芸高田市教育委員会が、古墳の範囲・内容を確認するための発掘調査を実施した。その結果、墳長77.5m、後円部直径は最大で56.2m、前方部長29m、後円部と前方部の比高は5mで、後円部は3段、前方部は2段築成で、左右対称で均整のとれた形状を呈していることが明らかとなった。古墳の主軸はほぼ南北方向で、西側は高い尾根に遮られて見通しが利かないのに対し、南から東方向は山麓に広がる沖積地への眺望が良好に開けている。墳丘の造成は西側の谷地形などの自然地形を利用し、後円部と前方部の間に大きな比高をもたせることで、墳丘をより大きく見せる視覚的効果を企図したものと推測される。外表施設としては葺石、埴輪配列、敷石及び石敷区画を確認し、葺石は墳丘斜面のほぼ全面に施されている。 後円部平坦面では、墳丘主軸に平行する長さ7.5m、幅2.8mの墓坑1基を検出し、電気探査によると、竪穴式石室や礫槨など石を用いた構造の埋葬施設だと考えられる。墳丘の各テラス、前方部平坦面、後円部平坦面において、円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、楕円筒埴輪と家形埴輪、衣笠形埴輪、甲冑形埴輪、船形埴輪などを確認し、その特徴から古墳時代前期末、4世紀後半のものと考えられる。 そのうち後円部平坦面では、外縁から内側2mのところで、円筒埴輪のほか楕円筒埴輪・衣笠形埴輪などが樹立していた。これらには、大型の埴輪が深い位置に埋置される傾向があり、中には底部を打ち欠いた円筒埴輪もあることから、築造当時は埴輪の高さを揃えようとしていたものと考えられる。これら円筒埴輪等の内側には、5個体の家形埴輪が長辺と短辺を交互に入れ替えながら一列に配置されていた。家形埴輪については、埴輪を設置後、直径10cm程度の円礫を敷き詰めていたため、設置当初の原位置を確認することができた。 甲立古墳は、広島県内では史跡三ツ城古墳に次ぐ規模で、墳丘形態や埴輪の特徴などから古墳時代前期末に築造された前方後円墳である。均整の取れた墳形や緻密に施された葺石、丁寧かつ精巧に製作された家形埴輪などは、畿内地域で築造された古墳と共通し、本古墳の築造には畿内地域の勢力が深く関わっていたことが考えられる。また、大和政権が朝鮮半島と対外交流において関係を深めた4世紀後半は、瀬戸内海と日本海沿岸や本古墳のように瀬戸内海と日本海を結ぶ内陸部に主要な古墳が築造された。このことは、大和政権の対外政策の在り方を知ることができる。さらに、後円部では長大な墓坑に接して家形埴輪を伴う石敷区画があり、それらを円筒埴輪列が囲繞していたことになり、当時の葬送儀礼の在り方を知ることもできる。 このように、本古墳は古墳時代前期の政治や交通そして葬送儀礼の在り方を知る上で重要である。よって史跡に指定し、保護を図るものである。