国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
西山御殿跡(西山荘)
ふりがな
:
にしやまごてんあと(せいざんそう)
西山御殿跡(西山荘)(全景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
名勝
時代
:
江戸時代
年代
:
西暦
:
面積
:
143302.34 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
27
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
八.旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類,一.公園、庭園,三.花樹、花草、紅葉、緑樹などの叢生する場所
所在都道府県
:
茨城県
所在地(市区町村)
:
茨城県常陸太田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
西山御殿跡(西山荘)(全景)
解説文:
詳細解説
西山御殿跡(西山荘)は,水戸藩2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が隠居した後に居住した邸宅跡である。関東平野最北の谷津の最深部付近に位置する。光圀は寛文元年(1661)に藩主となり,『大日本史』の編纂を始めたことで知られる。元禄3年(1690)に隠居を許され,その後この地に移り住み,茅葺に土壁の簡素な建物に居住した。郷の入口に架けた橋を自ら「桃源橋(とうげんきょう)」と名付けたことからも,光圀がここを理想郷と考えていたことがうかがえる。光圀は御殿の周辺の山に鹿を,田に鶴を放ち,薬効のある草木を多数植えた。御殿での光圀は「西山隠士(せいざんいんし)」などと称し,領内の巡検や,文化事業に取り組む一方,『大日本史』の校閲などの作業を行った。光圀の死後建物は解体されたが,享保元年(1716)に再建された。この建物は文化14年(1817)に焼失したものの,文政2年(1819)に光圀居住時の三分の一の規模で忠実に再現されて残っており,敷地全体は現在「西山荘」と呼ばれている。御殿の周囲には2つの池,滝,遙拝石,突上御門などを備えた庭園があり,また紀伊徳川家より贈られたという熊野杉の木立がそびえる。このように,光圀が理想とした景観が今日までよく残されているとともに,『大日本史』を自ら校閲した記念碑的な場所として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
西山御殿跡(西山荘)(全景)
西山御殿跡(西山荘)(主庭)
西山御殿跡(西山荘)(突上御門)
4_西山御殿跡(西山荘)(通用門)
西山御殿跡(西山荘)(全景)
西山御殿跡(西山荘)(全景)
西山御殿跡(西山荘)(突上御門)
西山御殿跡(西山荘)(紅蓮池)
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西山御殿跡(西山荘)(全景)
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西山御殿跡(西山荘)(主庭)
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西山御殿跡(西山荘)(突上御門)
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4_西山御殿跡(西山荘)(通用門)
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西山御殿跡(西山荘)(全景)
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西山御殿跡(西山荘)(全景)
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西山御殿跡(西山荘)(突上御門)
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西山御殿跡(西山荘)(紅蓮池)
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解説文
西山御殿跡(西山荘)は,水戸藩2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が隠居した後に居住した邸宅跡である。関東平野最北の谷津の最深部付近に位置する。光圀は寛文元年(1661)に藩主となり,『大日本史』の編纂を始めたことで知られる。元禄3年(1690)に隠居を許され,その後この地に移り住み,茅葺に土壁の簡素な建物に居住した。郷の入口に架けた橋を自ら「桃源橋(とうげんきょう)」と名付けたことからも,光圀がここを理想郷と考えていたことがうかがえる。光圀は御殿の周辺の山に鹿を,田に鶴を放ち,薬効のある草木を多数植えた。御殿での光圀は「西山隠士(せいざんいんし)」などと称し,領内の巡検や,文化事業に取り組む一方,『大日本史』の校閲などの作業を行った。光圀の死後建物は解体されたが,享保元年(1716)に再建された。この建物は文化14年(1817)に焼失したものの,文政2年(1819)に光圀居住時の三分の一の規模で忠実に再現されて残っており,敷地全体は現在「西山荘」と呼ばれている。御殿の周囲には2つの池,滝,遙拝石,突上御門などを備えた庭園があり,また紀伊徳川家より贈られたという熊野杉の木立がそびえる。このように,光圀が理想とした景観が今日までよく残されているとともに,『大日本史』を自ら校閲した記念碑的な場所として重要である。
詳細解説▶
詳細解説
西山御殿跡(西山荘)は、水戸藩2代藩主徳川光圀(1628~1700)が元禄3年(1690)に藩主の座を養子の綱條(つなえだ)に譲って隠居した際に居住した邸宅跡である。関東平野の最北、久慈川水系の源氏川の谷津が入り込んだ最深部付近に位置する。近隣には父頼房の墓所である瑞龍山(ずいりゅうさん)(史跡水戸德川家墓所)や母久昌院(きゅうしょういん)の菩提寺の久昌寺がある。 光圀は水戸藩初代藩主頼房の第3子として寛永5年(1628)に生まれ、寛文元年(1661)に頼房の死去を受けて藩主となった。在任中は『大日本史』の編纂事業等を行った。元禄3年(1690)に隠居を許されるが、藩主退任の前年に西山を訪れた光圀はここを隠棲の地と定め、笹本次郎太夫に建物の敷地造成を命じた。御殿の建築に際しては延べ22,000人が動員されたが、完成した建物は茅葺に土壁という簡素なものであった。光圀が死去した直後に作成された『桃源遺事(とうげんいじ)』には、増井川(源氏川)に架けた橋を光圀が「桃源橋(とうげんきょう)」と名付けたことが記されており、この地を自らの理想郷と考えていたことがうかがえる。『桃源遺事』には敷地全体の絵図(「西山図」)や建物の間取り図もあり、これらをはじめとした諸史料によると、切岸によって平場を造成した上に御殿を建て、敷地内にはカリンやウメ、クマザサなど、薬草となる植物を多種類植えていたことがわかる。また、光圀は御殿周囲の山には鹿を、田には丹頂鶴を放った。御殿での光圀は「西山隠士(せいざんいんし)」などと自称し、領内の巡検をしながら、栃木県の那須国造碑(国宝)の修理や侍塚古墳(史跡)の発掘等の文化事業に取り組む一方、『大日本史』の校閲などの作業に取り組んだ。 元禄13年(1700)に光圀が西山御殿で生涯を終えると、翌年には書籍が水戸に運ばれ、西山御殿は水戸藩の太田代官所の管理下となり建物は解体された。元浪人の松波勘十郎を中心に財政再建などが行われた水戸藩の宝永の改革(1706~1709)では庭の築山が崩され、池が埋められたが、その後、光圀の十七回忌にあたる享保元年(1716)に、綱條(つなえだ)の命により御殿の再建が図られ、池を浚(さら)い築山を築き、周辺部も含めて旧観に復された。その際「慧日庵(えにちあん)」と名付けられ、久昌寺が管理することとなった。その時の建物は文化14年(1817)に焼失したものの、復興を目指した8代藩主齊(なり)脩(のぶ)によって文政2年(1819)に再建され、翌年に建物周囲の整備が行われた。再建された建物は主要部のみの忠実な再現で、元禄期の三分の一程度の規模であったが、現在の御殿周辺の景観はこの頃のものを踏襲している。その後は水戸徳川家の所有となり、現在は公益財団法人徳川ミュージアムが「西山荘」として所有・管理している。 西山御殿跡についての主な調査には、昭和55年に茨城県建築士会水戸支部によって行われたもの、東日本大震災で御殿等が被災したため、平成24年から26年にかけて徳川ミュージアムによって実施された半解体修理に伴って行われたものがある。御殿の修理と並行して、常陸太田市教育委員会によって、発掘調査や西山全体の測量等が行われ、発掘調査では、『桃源遺事』に記された井戸と考えられる遺構を検出した。 現存する遺構としては、まず文政2年再建の御殿がある。木造平屋建て茅葺きの寄棟造りで、茅葺屋根の棟にはイチハツを植えている。イチハツについては『桃源遺事』に「上に芝きり(一名いちはつ)と云、草生ひ茂れり」との記載があり、光圀の隠居時にも植えられていた。現在の建物の間取りは御玄関・御座ノ間・御次ノ間・御寝所・御学文所など御殿のオモテ部分からなる。光圀の居間である御座ノ間と家臣らが控えた御次ノ間との間には敷居が設けられていないが、これは身分の区別なく話ができるようにという光圀の考えによるものといわれている。また、御殿の東には文政2年に管理施設として建てられた守護宅がある。主庭は御殿の南面に広がる。流れでつながっている2つの池、滝、遙拝石等があり、2つの池はそれぞれ白蓮池(心字池)、紅蓮池(瓢箪池、赤蓮池)と呼ばれている。御殿の南西部に位置する白蓮池からの流れは東部にある紅蓮池へと注ぎ、その途中に御滝と呼ばれる小さな滝がある。御滝には現在は水が流れていないが、元は桜谷津から岩盤をくりぬいたトンネル状の水路で水を引き、石を組んだ滝口から吐水する構造になっていることが、昭和43年の御滝の改修工事の際に確認されている。御滝上部には観月山と呼ばれる山があるが、光圀はここで月見の宴を催したという。 『桃源遺事』の「西山図」には西山全体が描かれているが、御殿のある谷津やその周辺の山などの地形は現在もほぼ変わっていない。図には御殿の周囲に突上御門、通用門、文庫、白蓮池、赤蓮池(紅蓮池)、杉の木立などが、また、通用門の東側には田が、山には楓が描かれている。表門である突上御門や裏門である通用門、文庫等は後世に建て替えられているものの、現在も同じ位置にあり、白蓮池、赤蓮池(紅蓮池)も現存する。杉の木立については紀伊徳川家より贈られた熊野杉が今も林立する。入り口の東側の田の一部は御前(ごぜん)田(だ)として現在も耕作が行われている。また、秋には楓が色づき、往時と同じように景観に彩りを添える。このように光圀が理想とした景観が今日までよく残っている。 以上のように西山御殿跡は、徳川光圀が隠居し、そこで『大日本史』を自ら校閲した記念碑的な場所であるとともに、水戸徳川家や水戸藩によって維持がされてきたことによって、光圀が理想とした風致景観を現在もたどることができる点で重要である。よって史跡及び名勝に指定して、その保護を図るものである。