国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
屏風ケ浦
ふりがな
:
びょうぶがうら
屏風ケ浦(航空写真)
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種別1
:
名勝
種別2
:
天然記念物
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
218376.96 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
28
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
八.砂丘、砂嘴(さし)、海浜、島嶼,十一.展望地点
所在都道府県
:
千葉県
所在地(市区町村)
:
千葉県銚子市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
屏風ケ浦(航空写真)
解説文:
詳細解説
屏風ケ浦は千葉県北東部に位置する下総(しもうさ)台地を削る海食崖で,千葉県銚子市犬岩(いぬいわ)から旭市(あさひし)刑部岬(ぎょうぶみさき)まで,新生代(しんせいだい)鮮新世(せんしんせい)以降の地層から成る露岩の崖が約10kmにわたって分布する。一億年以上前の硬い岩石を基盤として約300万年前~40万年前の海洋性の環境で堆積した犬吠層群(いぬぼうそうぐん)と,その上に不整合(ふせいごう)面で接する内湾的な環境で堆積した香取(かとり)層や関東ローム層から成る。切り立った落差約60mの崖は,比較的柔らかい火山灰層などから構成されており,波浪の影響で崖面から剥離・落下した土砂が沿岸流により常に運び去られることにより形成されてきた。その侵食速度は年間50cm~100cmと急激であった。
江戸後期以降,その特徴的な地形が形作る景観が名所記や名所図会等の出版物に取り上げられるようになり,歌川広重の『六十余州名所図会』にも描かれた。そのような絵図等によって,現地を訪れたことのない人々にも屏風ケ浦の一定の印象が広がったと考えられる。明治期以降は交通網が発達し,実際に訪れる人々も増加した。また,海食崖や愛宕山からの景観は絵葉書やパンフレットなどの題材になるとともに,現在までさまざまな文学作品にも描かれてきた。屏風ケ浦の地形は,地質学上,また観賞上の価値が高く,重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
屏風ケ浦(航空写真)
屏風ケ浦(東から)
屏風ケ浦(近景)
屏風ケ浦(犬岩)
写真一覧
屏風ケ浦(航空写真)
写真一覧
屏風ケ浦(東から)
写真一覧
屏風ケ浦(近景)
写真一覧
屏風ケ浦(犬岩)
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解説文
屏風ケ浦は千葉県北東部に位置する下総(しもうさ)台地を削る海食崖で,千葉県銚子市犬岩(いぬいわ)から旭市(あさひし)刑部岬(ぎょうぶみさき)まで,新生代(しんせいだい)鮮新世(せんしんせい)以降の地層から成る露岩の崖が約10kmにわたって分布する。一億年以上前の硬い岩石を基盤として約300万年前~40万年前の海洋性の環境で堆積した犬吠層群(いぬぼうそうぐん)と,その上に不整合(ふせいごう)面で接する内湾的な環境で堆積した香取(かとり)層や関東ローム層から成る。切り立った落差約60mの崖は,比較的柔らかい火山灰層などから構成されており,波浪の影響で崖面から剥離・落下した土砂が沿岸流により常に運び去られることにより形成されてきた。その侵食速度は年間50cm~100cmと急激であった。 江戸後期以降,その特徴的な地形が形作る景観が名所記や名所図会等の出版物に取り上げられるようになり,歌川広重の『六十余州名所図会』にも描かれた。そのような絵図等によって,現地を訪れたことのない人々にも屏風ケ浦の一定の印象が広がったと考えられる。明治期以降は交通網が発達し,実際に訪れる人々も増加した。また,海食崖や愛宕山からの景観は絵葉書やパンフレットなどの題材になるとともに,現在までさまざまな文学作品にも描かれてきた。屏風ケ浦の地形は,地質学上,また観賞上の価値が高く,重要である。
詳細解説▶
詳細解説
屏風ケ浦は千葉県北東部に位置する海食崖で、千葉県銚子市犬岩(いぬいわ)から旭市刑部岬まで、約10kmにわたって分布する。屏風ケ浦周辺では、1億年以上前の白亜紀やジュラ紀の付加体を基盤として、約300万年前から40万年前の海洋性の環境で堆積した犬吠層群と、その上位に不整合で接する約13万年前に内湾環境で堆積した砂層からなる香取層が分布する。さらに屏風ケ浦の上面の平坦面(下総台地)は、主に火山砕屑物を起源とする泥や塵からなる関東ローム層に覆われる。これらの地層は、関東平野の中央が沈降して周辺部が隆起する関東造盆地運動や海水準変動にともなって形成されたものである。 切り立った落差約60mの崖は、年間50~100cmもの速度で進行する海岸侵食作用によって形成された。犬吠層群のうち砂質である名洗層が海面まで達している名洗付近では波浪の侵入方向によって、鋸状に侵食を受ける。この場合、崖から土砂が落ちてできた崖錐(がいすい)が波によって運ばれるとすぐに崖面の崩壊が起こる。他方、犬吠層群のなかでもやや硬い飯岡(いいおか)層などの泥質の地層が海面にある地域では、崖錐が波により除去されてもすぐに崖面の崩壊は起こらず、海面付近が波浪により削られ、ノッチが深く形成され、上からの荷重に耐えられなくなると一気に崩壊する。いずれの場合も崩れた土砂は沿岸流によって速やかに除去されていく。このような激しい海岸侵食作用は、台地上面の風雨によりできる谷を崖面が切断した地形である風隙(ふうげき)や懸谷(けんこく)からも計り知ることができる。 江戸後期以降、このような特徴的な地形が形作る景観が名所記や名所図会等の出版物に取り上げられるようになる。歌川広重(1797~1858)は『六十余州名所図会』の中で「下総銚子の濱 外(と)浦(うら)」として屏風ケ浦の景観を描いたが、広重の絵図以外でも、当時の名所記等では、海、空、崖、富士山、奇岩(千騎ヶ岩(せんがいわ)、犬岩(いぬいわ))をひとまとまりの景観として捉えている例が多い。決まった要素が描き込まれたそれらの絵図等によって、実際に現地を訪れたことのない人々にも屏風ケ浦の一定の印象が広がったと考えられる。 明治期になると交通網が発達し、屏風ケ浦を訪れる人々も増加した。激しく波が打ち付ける赤い断崖や愛宕山からの景観は絵葉書、パンフレット等の題材にもなった。また、徳冨蘆花(1868~1927)は「水國の秋」の中で屏風ケ浦の様子を「赫く禿げたる絶壁長く延びて海に出ず」と表現した。絵葉書などの構図は江戸期の名所図会などとは異なるものであったが、さまざまな写真や文学作品によって近代以降も定型的な景観の捉え方は継承され、現在に至っている。 外部からの訪問者が屏風ケ浦を定型的な景勝地と捉えることが多かった一方で、地元住民の間では近代に至るまで屏風ケ浦を景勝地として見る感覚はほとんどなかった。年間数十cm侵食される崖は住民の生活を脅かすものでしかなく、近世までの記録には、海食のため地元の集落が集団移転した話も伝わる。近代になってからの護岸整備及び戦後の港湾整備等によって侵食の速度が遅くなり、海食崖の近くまで行くことができるようになって、ようやく住民も屏風ケ浦を景勝地として意識するようになった。現在では、屏風ケ浦は日本ジオパークに認定され、地元住民が中心となった保全啓発活動が行われている。 以上のように、屏風ケ浦はかつての海底に堆積した砂や泥などからなる下総台地が、急激な風化と侵食を被って形成されたもので、日本列島が激しい浸食作用を受けていることを顕著に示しており、地質学上価値が高い。また、断崖に荒波が打ち寄せる景観は、江戸期以降現代まで多くの名所図会や文学作品に描かれるなど、観賞上高い価値を有する。よって、名勝及び天然記念物に指定し、保護を図るものである。