国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
山元遺跡
ふりがな
:
やまもといせき
山元遺跡(近景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
弥生時代後期
年代
:
西暦
:
面積
:
43186.88 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
新潟県
所在地(市区町村)
:
新潟県村上市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
山元遺跡(近景)
解説文:
詳細解説
新潟平野の北部に接する村上丘陵に所在する弥生時代の集落跡。遺跡は最高所で標高約40m,周囲との比高36m前後に位置する。日本海沿岸東北自動車道建設に伴い発見され,重要な遺跡であることが判明し現状保存の措置が執られた。
遺跡は比高約6mの谷を隔てて居住域と墓域から成る。丘陵頂部の居住域には,幅2m弱,深さ1m,断面逆台形の溝(環濠(かんごう))がめぐり,その平坦面では掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)・竪穴建物(たてあなたてもの)各1基を検出した。墓域では,土坑墓(どこうぼ)17基,埋設土器4基等を確認し,完形のガラス小玉68点,小型鉄剣1点は副葬品と考えられる。土坑墓の近くから確認された筒形銅製品の破片は弥生時代の青銅器の最北事例であり,東海地域の集団との関係を示唆する。出土した土器は弥生時代後期の東北系弥生土器である天王山(てんのうやま)式土器を主体とし,中期後葉の東北系・北陸系土器,後期の北陸系土器や続縄文土器もある。石器としては,打製石鏃(せきぞく)・石錐・楔形石器・磨製石斧・磨石(すりいし)類・砥石などがある。
弥生時代後期を最盛期とし,北陸文化圏と東北文化圏の接点に所在する環濠集落であり,現在のところ日本海側最北の高地性環濠集落である。居住域と墓域がセットで確認され,弥生時代の集落の様相を知る上で貴重な事例で,広範囲にわたる地域の集団と関係があった。東日本における弥生時代後期の社会及び文化のあり方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
山元遺跡(近景)
山元遺跡(環濠)
山元遺跡(竪穴建物)
山元遺跡(出土遺物 ガラス小玉)
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山元遺跡(近景)
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山元遺跡(環濠)
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山元遺跡(竪穴建物)
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山元遺跡(出土遺物 ガラス小玉)
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解説文
新潟平野の北部に接する村上丘陵に所在する弥生時代の集落跡。遺跡は最高所で標高約40m,周囲との比高36m前後に位置する。日本海沿岸東北自動車道建設に伴い発見され,重要な遺跡であることが判明し現状保存の措置が執られた。 遺跡は比高約6mの谷を隔てて居住域と墓域から成る。丘陵頂部の居住域には,幅2m弱,深さ1m,断面逆台形の溝(環濠(かんごう))がめぐり,その平坦面では掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)・竪穴建物(たてあなたてもの)各1基を検出した。墓域では,土坑墓(どこうぼ)17基,埋設土器4基等を確認し,完形のガラス小玉68点,小型鉄剣1点は副葬品と考えられる。土坑墓の近くから確認された筒形銅製品の破片は弥生時代の青銅器の最北事例であり,東海地域の集団との関係を示唆する。出土した土器は弥生時代後期の東北系弥生土器である天王山(てんのうやま)式土器を主体とし,中期後葉の東北系・北陸系土器,後期の北陸系土器や続縄文土器もある。石器としては,打製石鏃(せきぞく)・石錐・楔形石器・磨製石斧・磨石(すりいし)類・砥石などがある。 弥生時代後期を最盛期とし,北陸文化圏と東北文化圏の接点に所在する環濠集落であり,現在のところ日本海側最北の高地性環濠集落である。居住域と墓域がセットで確認され,弥生時代の集落の様相を知る上で貴重な事例で,広範囲にわたる地域の集団と関係があった。東日本における弥生時代後期の社会及び文化のあり方を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
山元遺跡は、新潟平野の北部に接する村上丘陵に所在する弥生時代の集落跡である。遺跡は最高所で標高約40m、周囲との比高は36m前後に位置する。 この遺跡は、平成17年、日本海沿岸東北自動車道建設に伴う新潟県教育委員会による遺跡の範囲と内容を確認する発掘調査により発見され、東北系弥生文化圏における環濠集落の初めての事例という重要性から、設計変更し現状保存の措置が執られた。これを受けて、平成21年度からは村上市教育委員会が範囲と内容を確認する発掘調査を実施してきた。 その結果、遺跡は居住域と墓域などからなり、居住域と墓域は比高約6mの谷で隔てられていることが明らかとなった。居住域では、丘陵頂部を1条から3条の環濠が取り囲んでいた。その平坦面では1間四方の掘立柱建物と考えられる遺構1基、平坦面の端部では竪穴建物1基を検出した。竪穴建物は長径6.3m、短径4.5m程度の小判形で、中央やや北寄りに炉を伴う。このほか多数のピットを検出している。斜面部には最大で幅3m弱、深さ2m弱、平均すると幅2m弱、深さ1mで、断面は逆台形を呈する溝が、数か所で途切れながらも丘陵を取り囲んでいた。これらは傾斜が途中で急角度になる地形変換点に掘削され、小規模ながらも部分的に二重、三重になっていた。また、丘陵頂部を区画するような溝2条も確認した。出土した土器は弥生時代後期の東北系弥生土器である天王山式土器を主体とし、このほか中期後葉の東北系・北陸系土器、後期の北陸系土器や続縄文土器などもある。石器としては、打製石鏃・石錐・楔形石器・磨製石斧・磨石(すりいし)類・砥石及び剥片石器などがある。 墓域では、土坑墓17基、埋設土器4基等を確認した。そのうち長径2m、短径0.85mの土坑墓と考えられる遺構からは完形のガラス小玉68点が出土し、埋設土器からは小型鉄剣1点が出土している。さらに土坑墓の近くからは筒形銅製品の破片も確認され、これは弥生時代の青銅器の最北事例である。このほか、破損したガラス小玉や剥片石器も出土し、前者については意図的に破砕された可能性があり葬送儀礼との関わりが考えられ、後者については骨角を対象にした使用痕が確認されており、在地の墓制である再葬墓の伝統と続縄文文化の系譜が融合したものと考えられる。 このように、山元遺跡は北陸文化圏と東北文化圏の接点に位置する弥生時代後期を最盛期とする環濠集落であり、現在のところ日本海側最北の高地性環濠集落でもある。しかも、居住域と墓域がセットで確認されており、弥生時代の集落の様相を知る上で貴重な事例でもある。さらに土器の様相では北陸地域から北海道・東北北部地域、筒形銅製品からは東海地域の集団と関係があったことを示唆する。本遺跡は、東日本における弥生時代後期の社会及び文化のあり方、さらには広範囲に繰り広げられた地域間交流のあり方を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。