国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
飯田古墳群
ふりがな
:
いいだこふんぐん
飯田古墳群(高岡第1号古墳全景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
5世紀後半~6世紀末
年代
:
西暦
:
面積
:
30889.44 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県飯田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
飯田古墳群(高岡第1号古墳全景)
解説文:
詳細解説
長野県南部,中央アルプスと伊那山脈及び南アルプスに挟まれた伊那谷と呼ばれる標高400m台の低位または中位の段丘上の南北約10km,東西約2.5kmの範囲に,5世紀後半から6世紀末にかけて継続して築造された古墳群。
古墳群は北から座光寺(ざこうじ)・上郷(かみさと)・松尾(まつお)・竜丘(たつおか)・川路(かわじ)という5つのグループ(単位群)から成る。5世紀後半に突如として古墳の築造が始まり,古墳築造の背景には馬の文化を通じた大和政権との関わりが考えられる。本古墳群は,内陸交通において東西地域を結ぶ交通の結節点に位置しており,独自に周辺地域と交流があったことを示すとともに,大和政権による東国経営とも関わりがあったことを物語る。また,6世紀後葉の前方後円墳の消長及び畿内系横穴式石室受容の背景には,地域の再編成と大和政権の東国経営強化の過程をみることができる。
飯田古墳群は広範囲に及ぶが一体の古墳群として捉えることで,古墳時代中・後期にみられる大和政権による政治支配の状況や東国経営のあり方を知ることができるとともに,大和政権を構成する地域社会の動向を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
飯田古墳群(高岡第1号古墳全景)
飯田古墳群(高岡第1号古墳横穴式石室)
飯田古墳群(馬背塚古墳全景)
飯田古墳群(馬背塚古墳後円部横穴式石室)
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飯田古墳群(高岡第1号古墳全景)
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飯田古墳群(高岡第1号古墳横穴式石室)
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飯田古墳群(馬背塚古墳全景)
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飯田古墳群(馬背塚古墳後円部横穴式石室)
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解説文
長野県南部,中央アルプスと伊那山脈及び南アルプスに挟まれた伊那谷と呼ばれる標高400m台の低位または中位の段丘上の南北約10km,東西約2.5kmの範囲に,5世紀後半から6世紀末にかけて継続して築造された古墳群。 古墳群は北から座光寺(ざこうじ)・上郷(かみさと)・松尾(まつお)・竜丘(たつおか)・川路(かわじ)という5つのグループ(単位群)から成る。5世紀後半に突如として古墳の築造が始まり,古墳築造の背景には馬の文化を通じた大和政権との関わりが考えられる。本古墳群は,内陸交通において東西地域を結ぶ交通の結節点に位置しており,独自に周辺地域と交流があったことを示すとともに,大和政権による東国経営とも関わりがあったことを物語る。また,6世紀後葉の前方後円墳の消長及び畿内系横穴式石室受容の背景には,地域の再編成と大和政権の東国経営強化の過程をみることができる。 飯田古墳群は広範囲に及ぶが一体の古墳群として捉えることで,古墳時代中・後期にみられる大和政権による政治支配の状況や東国経営のあり方を知ることができるとともに,大和政権を構成する地域社会の動向を知る上でも重要である。
詳細解説▶
詳細解説
長野県南部、中央アルプスと伊那山脈及び南アルプスに挟まれた伊那谷を流れる天竜川流域では、標高400m台の低位または中位段丘上の南北約10km、東西約2.5kmの範囲に、5世紀後半から6世紀末にかけて、多くの古墳が継続して築造された。 これらの古墳については、昭和30年に刊行された『下伊那史』に取り上げられ、昭和50年代以降に緊急発掘調査が増加した。その際、古墳時代における馬の埋葬遺構の発見が相次ぎ、f字形鏡板付轡(えふじがたかがみいたつきくつわ)や剣菱形杏葉(けんびしがたぎょうよう)といった馬具を伴うことから、馬の文化が深く関わっていたことが知られるようになった。飯田市教育委員会では、これらの古墳の重要性に鑑み、平成16年度から範囲と内容を明らかにする発掘調査を実施し、市域に所在する前方後円墳及び帆立貝形前方後円墳22基を中心に飯田古墳群と総称することとした。 古墳群は北から座光寺(ざこうじ)・上郷(かみさと)・松尾(まつお)・竜丘(たつおか)・川路(かわじ)という5つのグループ(単位群)から成る。今回指定するのは、座光寺グループの高岡(たかおか)第1号古墳、上郷グループの飯沼天神塚(雲彩寺)(いいぬまてんじんづか(うんさいじ))古墳、松尾グループの御射山獅子塚(みさやまししづか)古墳、姫塚(ひめづか)古墳、上溝天神塚(あげみぞてんじんづか)古墳、おかん塚(づか)古墳、水佐代獅子塚(みさじろししづか)古墳、竜丘グループの塚原二子塚(つかばらふたごづか)古墳、大塚(おおつか)古墳、鏡塚(かがみづか)古墳、鎧塚(よろいづか)古墳、御猿堂(おさるどう)古墳、馬背塚(ませづか)古墳の13基である。 5世紀後半には川路グループ以外の4つのグループで前方後円墳ないしは帆立貝形古墳が突如として築造されることとなった。古墳出現の背景としては、直前の5世紀中葉に馬の埋葬が始まることから、それとの関わりが考えられる。 6世紀初頭になると、横穴式石室が前方後円墳の埋葬施設となる。そのうち座光寺グループでは、朝鮮半島の竪穴系横口式石室の系譜につながる石室が採用された。この系譜を引く石室は、その後も座光寺グループでのみ採用されたのに対し、ほかのグループでは東海地域や北関東地域との関わりが想定される石室が構築されるなど、グループごとの独自性が認められる。 6世紀前葉から中葉には、5つのグループで前方後円墳が築造され、そのうち、座光寺・上郷・竜丘の3つのグループで後円部に比べて前方部が長い前方後円墳が築造され、埴輪の樹立や無袖式横穴式石室の採用という点でいくつかのグループ間に共通性が認められるようになる。そして、飯田古墳群では最大級である墳長70mの前方後円墳として、座光寺グループの高岡第1号古墳と上郷グループの飯沼天神塚(雲彩寺)古墳が築造された。 6世紀後葉になると、座光寺グループ及び上郷グループで前方後円墳が途絶するのに対し、松尾グループと竜丘グループでは引き続き前方後円墳が築造された。そして、松尾グループのおかん塚古墳及び竜丘グループの馬背塚古墳では巨石を用いた畿内的な大型両袖式横穴式石室が構築された、6世紀末の竜丘グループの馬背塚古墳をもって、前方後円墳の築造は終焉を迎えた。 このように、飯田古墳群では5世紀後半に突如として多数の前方後円墳の築造が始まる。この時期は列島の広い範囲で古墳の築造に変化がおこり、その動きは伊那谷にも波及していたことになる。古墳築造の背景には、馬の文化を通じた大和政権との関わりが考えられる。この時期には太平洋沿岸部よりも畿内地域や東海地域との関わりが強くなる。本古墳群は内陸交通における東西地域を結ぶ交通の結節点に位置しており、周辺地域と独自の交流があったことを示すとともに、大和政権による東国経営とも関わりがあったことを物語る。さらに、6世紀後葉における前方後円墳の消長及び畿内系横穴式石室受容の背景には、地域の再編成と大和政権の東国経営強化の過程をみることができる。そして全体として、古墳群成立期の5世紀後半には5つのグループそれぞれに多様な特徴をもっていたが、6世紀後葉には2つのグループで畿内地域からの影響が認められるという展開をみせている。 飯田古墳群は広範囲に及ぶが一体の古墳群として捉えることで、古墳時代中・後期にみられる大和政権による政治支配や東国経営のあり方を知ることができるとともに、大和政権を構成する地域社会の動向を知ることができるという点でも重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。