国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
大山寺旧境内
ふりがな
:
だいせんじきゅうけいだい
大山寺旧境内(近景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
平安時代~近世
年代
:
西暦
:
面積
:
435008.62 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
鳥取県
所在地(市区町村)
:
鳥取県西伯郡大山町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
大山寺旧境内(近景)
解説文:
詳細解説
大山寺は山号を角磐山(かくばんざん)といい,中国山地最高峰,大山(弥山(みせん),1,709m)の北面中腹に位置する山林寺院である。大山は,『出雲国風土記』に火神岳(ひのかみのたけ)あるいは大神岳(おおかみのたけ)とみえる古くからの信仰の山で,『撰集抄(せんじゅうしょう)』(建長2年〈1250〉頃成立)は,8世紀後半の称徳天皇の頃,出雲国造俊方(としかた)が地蔵菩薩を大智明権現(だいちみょうごんげん)として祀ったと伝える。平安時代後期の『新猿楽記(しんさるごうき)』に修験の山とみえ,文献史料や発掘調査等の成果から,中世に最大規模となったことが知られる。近世には幕府から三千石の寺領が安堵され,西明院谷,南光院谷,中門院谷の三院谷の上に本坊である西楽院(さいらくいん)が支配する一山三院四十二坊の体制をとった。そして,牛馬の守護神や祖霊神と結びつき,広く民衆の信仰を集めた。明治維新で寺領を失った大山寺は,明治8年(1875)に寺号廃絶のうえ大智明権現社が大神山神社奥宮に定められた。寺号復活が認められたのは明治36年(1903)のことである。旧境内地には近世以前の建造物が残り,廃絶した子院(僧坊)にも石垣や土塁,それらを結ぶ参道が良好に遺存している。大山町教育委員会による総合調査の結果,我が国を代表する山林寺院のひとつであることが明確となった。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
大山寺旧境内(近景)
大山寺旧境内(大神山神社奥宮)
大山寺旧境内(旧本坊・西楽院跡)
大山寺旧境内(大山寺阿弥陀堂参詣道・子院跡)
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大山寺旧境内(近景)
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大山寺旧境内(大神山神社奥宮)
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大山寺旧境内(旧本坊・西楽院跡)
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大山寺旧境内(大山寺阿弥陀堂参詣道・子院跡)
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解説文
大山寺は山号を角磐山(かくばんざん)といい,中国山地最高峰,大山(弥山(みせん),1,709m)の北面中腹に位置する山林寺院である。大山は,『出雲国風土記』に火神岳(ひのかみのたけ)あるいは大神岳(おおかみのたけ)とみえる古くからの信仰の山で,『撰集抄(せんじゅうしょう)』(建長2年〈1250〉頃成立)は,8世紀後半の称徳天皇の頃,出雲国造俊方(としかた)が地蔵菩薩を大智明権現(だいちみょうごんげん)として祀ったと伝える。平安時代後期の『新猿楽記(しんさるごうき)』に修験の山とみえ,文献史料や発掘調査等の成果から,中世に最大規模となったことが知られる。近世には幕府から三千石の寺領が安堵され,西明院谷,南光院谷,中門院谷の三院谷の上に本坊である西楽院(さいらくいん)が支配する一山三院四十二坊の体制をとった。そして,牛馬の守護神や祖霊神と結びつき,広く民衆の信仰を集めた。明治維新で寺領を失った大山寺は,明治8年(1875)に寺号廃絶のうえ大智明権現社が大神山神社奥宮に定められた。寺号復活が認められたのは明治36年(1903)のことである。旧境内地には近世以前の建造物が残り,廃絶した子院(僧坊)にも石垣や土塁,それらを結ぶ参道が良好に遺存している。大山町教育委員会による総合調査の結果,我が国を代表する山林寺院のひとつであることが明確となった。
詳細解説▶
詳細解説
大山寺は山号を角磐山(かくばんざん)といい、中国山地最高峰、大山(弥山(みせん)、1,709m)の北面中腹に位置する山林寺院である。大山は、『出雲国風土記』に火神岳(ひのかみのたけ)あるいは大神岳(おおかみのたけ)とみえ、『続日本後紀』ほかに伯耆大山神と記された、古くからの信仰の山である。『撰集抄(せんじゅうしょう)』(建長2年〈1250〉頃成立)は、8世紀後半の称徳天皇の頃、出雲国造俊方(としかた)が地蔵菩薩を大智明権現(だいちみょうごんげん)として祀ったと伝え、大山寺の縁起(鎌倉時代後期頃成立)は、養老2年(718)、出雲玉造(たまつくり)の猟師依道(よりみち)が地蔵菩薩に帰依し、金蓮(こんれん)上人となって開いたと伝える。また、縁起は応和3年(963)に大智明権現を宣下(せんげ)され、権現像を社殿に納めたと伝えている。平安時代後期の『新猿楽記(しんさるごうき)』に修験の山として登場し、『今昔物語集』に地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)が大智明菩薩であると記されるなど、神仏の習合と地蔵信仰の広がりを窺い知ることができる。承安2年(1172)の鉄製厨子(重要文化財)銘から、遅くとも12世紀後半には三院(西明院、南光院、中門院)が成立していたことが判明する。大智明権現を祀った社殿が大智明権現社(現・大神山(おおがみやま)神社奥宮。重要文化財)であり、一山の総本社に位置付けられる。西明院は阿弥陀堂(常行堂、天文21年〈1552〉に再建のものが現存。重要文化財)と文殊菩薩の垂迹・利寿(りじゅ)権現を祀る社を、南光院は釈迦堂と薬師如来の垂迹・金剛童子を祀る社を、中門院は大日堂と観世音菩薩の垂迹・霊像(れいぞう)権現を祀る社を、それぞれ中心堂社とした。 三院は本来独立性が高く、抗争をくり返して、承安元年(1171)には本社殿が焼失するが、翌年、社殿再建と山内の再興が一山三院で議定される。13世紀前半頃には、延暦寺別院無動寺領として大山寺の名がみえ、天台寺院として比叡山と結びついていた。室町時代以降も幕府、守護、国人領主層などから保護を受けた。 戦国時代には尼子氏や毛利氏によって保護がなされ、関ヶ原の戦い以後、吉川氏に代わって中村一忠(かずただ)が米子城に入り、寺領の一部を没収するが、圓智(えんち)(後の豪圓(ごうえん))が、慶長15年(1610)、幕府から寺領三千石の安堵を得た。近世における大山寺は、、南光院谷、西明院谷、中門院谷の三院谷で組織され、各院谷は14の子院(僧坊)から成り、それらを本坊である西楽院(さいらくいん)が支配する一山三院四十二坊の体制をとった。また、寺領丸山村に各子院の里坊(さとぼう)が展開した。西楽院は、もとは中門院谷に属したが、豪圓が入って学頭となり、一山の代表となった。大山寺は、寛永3年(1626)から東叡山寛永寺の末寺となり、寺務は三院の学頭代があたり、宝永7年(1710)以降は、比叡山坂本滋賀院の支配するところとなった。近世には、牛馬の守護神や祖霊信仰などと結びつき、広く民衆の信仰を集めた。 明治維新で寺領を失った大山寺は、明治8年(1875)に寺号廃絶の上、大智明権現社が大神山神社奥宮に定められ、旧本坊西楽院も取り壊された。明治36年(1903)になって寺号復活が認められ、山内に残った僧侶によって旧大日堂を本堂として新たな大山寺が興され、かつての大山寺の法灯が受け継がれることとなった。現在、江戸時代にさかのぼる子院の建物として、洞明院、金剛院、寿福院、普明院、理観院等の建物が残るとともに、その他の子院の跡地には石垣や土塁が遺存し、かつての繁栄を伝えている。 平成15年度から大山町教育委員会は旧境内地の総合調査に取り組んだ。その結果、170か所程の平坦面を確認し、これまで不明であった中世期の遺構の広がりが明らかとなるとともに、近世になると範囲が縮小することが判明した。大山寺旧境内は本社を最上位に、次いで各尾根筋に三院の本堂・本社を配置し、その裾部に子院が配置される構造であった。参道と子院との配置に時代的変遷があることも推定され、室町時代の子院からは土師質土器のほか、越前焼や瀬戸美濃焼等の国産陶磁器、青磁、白磁、褐釉陶器等の輸入陶磁器が出土し、その文化的、経済的な様相の一端が明らかとなった。 このように、古代以来信仰を集め、中世に最大の規模をなした大山寺旧境内は、我が国を代表する山林寺院の一つであり、我が国の仏教信仰のあり方、特に神仏が習合した地蔵信仰のあり方等を考える上で重要であることから、旧境内地のうち条件の整った地域を指定し、保護を図ろうとするものである。