国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
旧沼津御用邸苑地
ふりがな
:
きゅうぬまづごようていえんち
旧沼津御用邸苑地(全景)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
明治時代~大正時代
年代
:
西暦
:
面積
:
95371.29 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
141
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.花樹、花草、紅葉、緑樹などの叢生する場所,十一.展望地点
所在都道府県
:
静岡県
所在地(市区町村)
:
静岡県沼津市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
旧沼津御用邸苑地(全景)
解説文:
詳細解説
沼津市の狩野川(かのがわ)河口東方の島郷(とうごう)海岸に位置する。島郷海岸は,波静かで遠浅の海浜を成して白砂青松(はくしゃせいしょう)の風致景観を呈し,夏季は涼しい海風により避暑地,冬季は西方の牛臥山(うしぶせやま)と防風林が季節風を遮って避寒地として保養の適地である。苑地は旧本邸・東附属邸・西附属邸の3つの区域から成る。旧本邸の区域は明治26年(1893)に竣工し,順次整備を重ねた。明治時代後半には皇室子弟の教育施設としての整備が進められ,明治36年(1903)には東附属邸を,明治38年(1905)には本邸西側に位置していた養育係,川村純義(かわむらすみよし)の別荘を西附属邸として整備し,大正11年(1922)には全容が整った。旧本邸建物は昭和20年(1945)の空襲によって焼失したが,クロマツ林と芝生地,そして,海浜に臨み,富士山・牛臥山等を望む苑地は今も風致景観をよく保持しており,昭和44年(1969)の御用邸廃止後は,沼津御用邸記念公園として沼津市が管理している。近代における近郊海浜保養地の優れた風致景観を伝える事例として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧沼津御用邸苑地(全景)
旧沼津御用邸苑地(クロマツ林)
旧沼津御用邸苑地(東附属邸)
旧沼津御用邸苑地(西附属邸)
旧沼津御用邸苑地(クロマツ林越しの富士山)
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旧沼津御用邸苑地(全景)
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旧沼津御用邸苑地(クロマツ林)
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旧沼津御用邸苑地(東附属邸)
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旧沼津御用邸苑地(西附属邸)
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旧沼津御用邸苑地(クロマツ林越しの富士山)
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解説文
沼津市の狩野川(かのがわ)河口東方の島郷(とうごう)海岸に位置する。島郷海岸は,波静かで遠浅の海浜を成して白砂青松(はくしゃせいしょう)の風致景観を呈し,夏季は涼しい海風により避暑地,冬季は西方の牛臥山(うしぶせやま)と防風林が季節風を遮って避寒地として保養の適地である。苑地は旧本邸・東附属邸・西附属邸の3つの区域から成る。旧本邸の区域は明治26年(1893)に竣工し,順次整備を重ねた。明治時代後半には皇室子弟の教育施設としての整備が進められ,明治36年(1903)には東附属邸を,明治38年(1905)には本邸西側に位置していた養育係,川村純義(かわむらすみよし)の別荘を西附属邸として整備し,大正11年(1922)には全容が整った。旧本邸建物は昭和20年(1945)の空襲によって焼失したが,クロマツ林と芝生地,そして,海浜に臨み,富士山・牛臥山等を望む苑地は今も風致景観をよく保持しており,昭和44年(1969)の御用邸廃止後は,沼津御用邸記念公園として沼津市が管理している。近代における近郊海浜保養地の優れた風致景観を伝える事例として重要である。
詳細解説▶
詳細解説
旧沼津御用邸は、沼津市の狩野川(かのがわ)河口東方の島郷(とうごう)海岸に位置する。島郷海岸は波静かな遠浅の海浜を成して白砂青松の風致景観を呈し、夏季は涼しい海風によって避暑地となり、冬季は西方の牛臥山(うしぶせやま)と防風林が季節風を遮って避寒地となる。この地域は、北から東を香貫山(かぬきやま)から徳倉山(とくらやま)に続く低い山々が連なって背景を成し、南は海浜越しに伊豆半島北西部の山々と小島が点在し変化に富んだ海岸に臨んで、北西には香貫山の北側を蛇行しながら西に流れてきた狩野川が囲い込んで大きく南に曲がり駿河湾に注いでいる。 狩野川河口を挟んで西方の千本浜から東方の内浦(うちうら)湾に至る海岸は近世以来の長大な松原が連担する景勝地で、東海道鉄道路線の敷設に伴って、明治22年(1889)、狩野川右岸の旧沼津城下に沼津停車場が開業されるのと前後して、帝都近郊の風光明媚な保養地として広く普及し、海水浴場が開設されたり、数多くの政財界人別荘のほか、臨海学校、旅館・ホテルなどが造営されたりするようになった。一方、この頃、宮内省は、皇太子・明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王(後の大正天皇)の療養のために御用邸の候補地を調査し、この地域の御料林内に適地を求めた。明治26年(1893)4月に2町6反5畝16歩(約2.63ha)を御料局から内匠寮(たくみりょう)に所管替えし、同年7月に御座所・御学問所等から成る最初の御用邸を竣工した。明治29年(1896)までに新御座所・玉突所を増築し、明治32年・33年には敷地を海岸まで拡大するとともに、洋館・玄関・車寄せ等を整備して、御用邸の中心となる本邸の区域が完成した。明治33年(1900)の皇太子成婚後、迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)をはじめとする親王が誕生すると、伯爵・川村純義がその養育に当たるよう命じられ、川村の東京本邸や沼津御用邸西隣の川村の別荘に親王が長期間滞在することもあって、御用邸は皇室子弟の教育の場として整備されていった。宮内省は、明治36年(1903)に赤坂離宮東宮大夫官舎を本邸東側の敷地に移築し、学問所として東附属邸を建設したのに加え、明治38年(1905)には川村の別荘を買い上げて御所内の賢所(かしこどころ)附属建物を移築し、これに増築して親王滞在の御用邸として西附属邸を整備して、大正11年(1922)には、今日に伝わる本邸・東附属邸・西附属邸から成る沼津御用邸の敷地の全容が整った。この間、皇太子・親王らは長期に滞在することが多く、冬季には100日以上を沼津で過ごしたことも記録されている。 一方、沼津御用邸の中心となる本邸の建造物群が昭和20年(1945)7月の大空襲によって焼失したことなどもあって、戦後において長期間の皇室利用は減少し、昭和44年には御用邸は廃止されることとなった。建物等と15ha余りに及ぶ全敷地は宮内庁から大蔵省に移管され、翌45年には沼津市が大蔵省から無償貸与を受けて「沼津御用邸記念公園」として開設した。昭和49年には本邸跡地に歴史民俗資料館を設置したほか、昭和61年には海岸部が海岸保全区域に指定されて大蔵省から建設省に移管され、平成5年には沼津市が西附属邸と東附属邸の建造物の払い下げを受けて敷地を含めた整備を進め、海岸保全区域では津波対策として防潮堤が整備された。 旧沼津御用邸は、これらの旧本邸・東附属邸・西附属邸の3つを主な区域として、それぞれを塀で囲み、苑地全体の風致景観はクロマツ林を基調として、林内を巡る苑路や芝生地と美しい調和を成している。旧本邸と西附属邸の間には海浜に至る通路を設けて旧御用邸後背地と島郷海岸を繋ぎ、旧本邸と東附属邸の間に広がるクロマツ林は両邸の風致景観を連続させている。旧本邸や西附属邸の海浜沿いの林間からは、駿河湾の風光明媚とともに牛臥山の姿を窺う風情に優れ、西附属邸からはクロマツ林越しに富士山の美しい姿を望む。こうした苑地の全体は、西附属邸と東附属邸に保存されてきた建造物群のほか、敷地を囲む石積みの塀と門とともに、近代に造営された沼津御用邸の風致景観を優れて保持している。 以上のように、旧沼津御用邸苑地は、近代日本における近郊海浜保養地の優れた風致景観を伝える事例として重要であり、名勝に指定し、保護を図ろうとするものである。