国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
小笠原氏城跡
井川城跡
林城跡
ふりがな
:
おがさわらししろあと
いがわじょうあと
はやしじょうあと
小笠原氏城跡(井川城跡 主郭礎石建物群)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
室町~戦国
年代
:
西暦
:
面積
:
361536.61 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県松本市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
小笠原氏城跡(井川城跡 主郭礎石建物群)
解説文:
詳細解説
松本平の中央部から東部に位置する,室町時代から戦国時代にかけての信濃守護小笠原氏の本拠となった城跡で,平地に築かれた井川城,山城である林城から成る。小笠原氏は,建武元年(1334)に信濃守護に任命されたが,領国統治は安定せず,常に軍事的な緊張の中に置かれていた。文安3年(1446)に勃発する小笠原一族内での家督相続争いは小笠原一族を三家に分裂させ,天文3年(1534)に府中小笠原氏により再統一されたが,天文19年(1550)には,武田(たけだ)晴(はる)信(のぶ)の侵攻により府中小笠原氏も信濃国から追われた。
こうした混乱の中,小笠原氏の居城は15世紀後半には平地の井川城から,防御性に優れた林城に移ったようであり,これは戦国期に全国的にみられる平地から山城へという領主の居城の変化の典型である。また,いずれの城跡もその保存状態は良好であり,室町時代から戦国時代に至る領主の居城の在り方を具体的に知ることができる。小笠原氏の動向を示すだけでなく,室町幕府や鎌倉府,上杉,徳川,北条といった信濃を取り巻く諸勢力の政治,軍事的な動向を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
小笠原氏城跡(井川城跡 主郭礎石建物群)
小笠原氏城跡(井川城跡 近景)
小笠原氏城跡(林大城跡 遠景)
小笠原氏城跡(林大城跡 主郭土塁内面石垣)
小笠原氏城跡(林大城跡 竪堀)
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小笠原氏城跡(井川城跡 主郭礎石建物群)
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小笠原氏城跡(井川城跡 近景)
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小笠原氏城跡(林大城跡 遠景)
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小笠原氏城跡(林大城跡 主郭土塁内面石垣)
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小笠原氏城跡(林大城跡 竪堀)
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解説文
松本平の中央部から東部に位置する,室町時代から戦国時代にかけての信濃守護小笠原氏の本拠となった城跡で,平地に築かれた井川城,山城である林城から成る。小笠原氏は,建武元年(1334)に信濃守護に任命されたが,領国統治は安定せず,常に軍事的な緊張の中に置かれていた。文安3年(1446)に勃発する小笠原一族内での家督相続争いは小笠原一族を三家に分裂させ,天文3年(1534)に府中小笠原氏により再統一されたが,天文19年(1550)には,武田(たけだ)晴(はる)信(のぶ)の侵攻により府中小笠原氏も信濃国から追われた。 こうした混乱の中,小笠原氏の居城は15世紀後半には平地の井川城から,防御性に優れた林城に移ったようであり,これは戦国期に全国的にみられる平地から山城へという領主の居城の変化の典型である。また,いずれの城跡もその保存状態は良好であり,室町時代から戦国時代に至る領主の居城の在り方を具体的に知ることができる。小笠原氏の動向を示すだけでなく,室町幕府や鎌倉府,上杉,徳川,北条といった信濃を取り巻く諸勢力の政治,軍事的な動向を知る上でも重要である。
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詳細解説
小笠原氏城跡は、松本平の中央部から東部に位置する室町時代から戦国時代にかけての信濃守護小笠原氏の居城跡で、平地に築かれた井川城跡と山城の林城跡から成る。小笠原氏は甲斐源氏の庶流、加賀美遠光(かがみとおみつ)の次男、長清が遠光の所領である甲斐国小笠原を相続し小笠原氏を名乗ることから始まり、足利尊氏に従い建武政権の樹立に功績があった小笠原貞宗(さだむね)が、建武元年(1334)に信濃守護に任命された。しかし、信濃国は室町幕府と鎌倉府の管轄の境界にあり、両者の対立にしばしば巻き込まれたことや、村上氏、高梨氏、諏訪氏など自立性の強い国人による反発にあい、守護職を何度か罷免されるなど、その支配は安定したものではなかった。 文安3年(1446)には、小笠原一族の間で家督相続争いが起こり、府中、鈴岡、松尾の三家に分裂し抗争が繰り広げられた。この争いは天文3年(1534)に府中小笠原氏が松尾小笠原氏を信濃から追放することにより終結するが、天文19年(1550)には、武田晴信の侵攻により府中小笠原氏も信濃国から追われた。この時の小笠原氏の当主、長時は、三好長慶や上杉謙信の支援を得て信濃奪回を目指すが果たせず、天正10年(1582)の本能寺の変により起こった徳川、北条、上杉、真田らによる旧武田領をめぐる騒乱に乗じて、上杉景勝の支援を得た長時の弟、洞雪斎(どうせつさい)が木曽義昌から深志城(松本城)を奪還し、さらに徳川家康の支援を受け小笠原家旧臣の支持を得た長時の三男、貞慶が深志城を奪った。貞慶の子秀政は、天正18年(1590)、小田原征伐で戦功をたて、家康の関東移封にともなって下総国古河に入り、関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601)には加増されて信濃国飯田に移り、さらに同18年(1613)には松本に帰還した。大坂の陣で秀政、忠脩(ただなが)父子は戦死し、秀政次男忠真が元和3年(1617)に加増されて播磨国明石に移封されるまでの5年間、小笠原氏は松本城に本拠を置くことになる。 井川城跡は、現在の松本市中心部、頭無川(ずなしがわ)に面した低地に立地する室町時代の居城である。現在も南北100m、東西70mの範囲で周囲よりも一段高い不整長方形の高まりが認められ、この場所が井川城跡と伝えられてきた。享保9年(1724)成立の『信府統記(しんぷとうき)』には、館の周囲を井の字のように流れが囲んでいたことから「井河ノ城」と称したとある。文献上の初出は文安3年(1446)から55年間にわたって諏訪大社の記録を書き継いだ『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』の応仁2年(1468)の記事である。応仁元年に小笠原政秀が信濃守小笠原宗清(清宗)を府中に攻めた時に、合戦の最中に切られた榊を捨てた場所として「井河堀」がみえる。 平成25・26年に松本市教育委員会が行った発掘調査では、不整長方形の高まりは、複数の河川が合流する低湿地に大規模な盛土を行って造成されたものであることが分かり、それを囲む堀や土塁、掘立柱建物、礎石建物などを検出している。土塁は高まりの周囲を全周する可能性が高く、出入り口は東側で1箇所、確認している。堀は頭無川に流れ込む旧河川を付け替えたもので、その様子は明治に描かれた『小島村絵図』などからも知られる。 また、堀の埋土からは多量のサイカチの花粉やサイカチ近似種の立株を検出しており、堀に沿ってサイカチが植栽されていたことが分かった。サイカチは幹や枝に鋭い棘を持つことから、防御性を高めるために植栽されたと考えられる。出土遺物には、12世紀から16世紀初頭の土師器や国産陶器、輸入陶磁器があり、15世紀前半前後のものが最も多く、15世紀末以後のものの出土量は極めて少ない。青磁花瓶や青花碗等の威信財が含まれ、また京都系土師皿の出土が目立つ。 これらのことから、井川城跡は15世紀前半に築造され、15世紀末に廃絶した1町規模の方形館であり、位置、規模、構造などから、『信府統記』にみえる「井河ノ城」である可能性が高い。 林城跡は、井川城跡の東方4kmに位置し、松本盆地の東部を形成する薄川(すすきがわ)扇状地の扇頂付近、薄川の現河道まで張り出した尾根先端に立地する。狭小な大嵩崎(おおつき)谷を挟んで北東尾根上に林大城跡、南西尾根上に林小城跡が所在する。明治11年の「入山辺村書き上げ」には、小笠原氏が三家に分裂した直後の長禄3年(1459)に府中小笠原氏の清宗が井川城から林城に移ったとある。また、武田氏に関する記録史料である『高白斎記(こうはくさいき)』には、天文14年(1545)、松本平に侵攻した武田勢により、「林近所」「小笠原の館」が放火され、天文19年には「大城・岡田・深志・桐原・山家(やまべ)」の5城が自落したとある。 林大城跡は、延長1km、最大幅400mに達する長大な構えで、標高846mの尾根頂部の主郭から、尾根先端に向けて階段状に複数の曲輪を造り、その間に竪堀と一体化した堀切や土塁を配している。城の保存状況は良好であり、主郭の側面から背面にかけては、鉢巻き状の平石積みの石垣を巡らせている。 発掘調査は松本市教育委員会が昭和63年度に副郭で、平成14年度に大嵩崎谷に所在する林山腰遺跡で行っている。副郭では時期不明の掘立柱建物等を検出している。林山腰遺跡では、戦国期に造成されたと考えられる複数の平坦面を確認し、15世紀末から16世紀初頭の瀬戸産陶器の一括資料を伴う大小複数の礎石建物や土坑を検出している。林山腰遺跡の成立時期が井川城の廃絶時期にほぼ合致することから、井川城から林城への居城の移動が想定されている。 小笠原氏城跡は、小笠原氏が信濃守護に任じられてから、武田晴信の信濃侵攻により信濃を退去するまでの間の小笠原氏の居城であり、平地に築かれた井川城から山城である林城への移動は、戦国期に全国的にみられる平地から山城への領主の居城の移動の典型例である。また、いずれの城もその保存状態は良好であり、室町時代から戦国時代に至る領主の居城の在り方を具体的に知ることができる。さらに、これらの城は、小笠原氏の分裂から信濃退去までの間の軍事的緊張関係をよく示しているだけでなく、室町幕府や鎌倉府、上杉、徳川、北条といった信濃を取り巻く諸勢力の政治、軍事的な動向を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。