国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
高島藩主諏訪家墓所
ふりがな
:
たかしまはんしゅすわけぼしょ
高島藩主諏訪家墓所(頼岳寺 御霊屋)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
1495.13 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
七.墳墓及び碑
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県諏訪市・茅野市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
高島藩主諏訪家墓所(頼岳寺 御霊屋)
解説文:
詳細解説
信濃国一宮諏訪大社の神職や諏訪の領主として古代以来の氏族である信濃国高島藩主の諏訪家代々の墓所である。諏訪頼水(よりみず)は,関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠に従い信濃上田城を攻めた功で,慶長6年(1601)に諏訪の領地を与えられ初代高島藩主となった。以後,諏訪家は明治維新まで藩主を代々務めた。
頼水は寛永8年(1631)に,中世以来の諏訪氏の拠点である上原城近くに頼岳寺(らいがくじ)を開基して両親を葬り,頼水も父頼忠(よりただ)のそばに葬られた。2代忠恒(ただつね)は,慶安2年(1649)に菩提寺として温泉寺(おんせんじ)を高島城下に建立した。忠恒が江戸で没しても温泉寺に葬られるとともに,以降の藩主も江戸で死去しても温泉寺で葬られ,2代忠恒から8代忠恕(ただみち)までが葬られて明治維新を迎える。
頼岳寺の御霊屋(おたまや)は安政6年(1859)に再建されたもので,三部屋に分かれ,中央に頼水の父頼忠,右に母理昌院(りしょういん)の部屋があり,それぞれ宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔(ごりんとう)を一対とする組み合わせである。左には頼水の部屋があり,安山岩製の石廟(せきびょう)が収められる。温泉寺の墓所は,基壇を含めて高さ約3mの石製墓標が並び,特に忠恒の墓標には,戒名の刻字部分は金泥,標身(ひょうしん)の継ぎ目には漆喰が充填されている。
以上のことから,近世大名の墓所の在り方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
高島藩主諏訪家墓所(頼岳寺 御霊屋)
高島藩主諏訪家墓所(頼岳院 頼水)
高島藩主諏訪家墓所(温泉寺 藩主墓標)
高島藩主諏訪家墓所(温泉寺 石灯籠)
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高島藩主諏訪家墓所(頼岳寺 御霊屋)
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高島藩主諏訪家墓所(頼岳院 頼水)
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高島藩主諏訪家墓所(温泉寺 藩主墓標)
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高島藩主諏訪家墓所(温泉寺 石灯籠)
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解説文
信濃国一宮諏訪大社の神職や諏訪の領主として古代以来の氏族である信濃国高島藩主の諏訪家代々の墓所である。諏訪頼水(よりみず)は,関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠に従い信濃上田城を攻めた功で,慶長6年(1601)に諏訪の領地を与えられ初代高島藩主となった。以後,諏訪家は明治維新まで藩主を代々務めた。 頼水は寛永8年(1631)に,中世以来の諏訪氏の拠点である上原城近くに頼岳寺(らいがくじ)を開基して両親を葬り,頼水も父頼忠(よりただ)のそばに葬られた。2代忠恒(ただつね)は,慶安2年(1649)に菩提寺として温泉寺(おんせんじ)を高島城下に建立した。忠恒が江戸で没しても温泉寺に葬られるとともに,以降の藩主も江戸で死去しても温泉寺で葬られ,2代忠恒から8代忠恕(ただみち)までが葬られて明治維新を迎える。 頼岳寺の御霊屋(おたまや)は安政6年(1859)に再建されたもので,三部屋に分かれ,中央に頼水の父頼忠,右に母理昌院(りしょういん)の部屋があり,それぞれ宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔(ごりんとう)を一対とする組み合わせである。左には頼水の部屋があり,安山岩製の石廟(せきびょう)が収められる。温泉寺の墓所は,基壇を含めて高さ約3mの石製墓標が並び,特に忠恒の墓標には,戒名の刻字部分は金泥,標身(ひょうしん)の継ぎ目には漆喰が充填されている。 以上のことから,近世大名の墓所の在り方を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
高島藩主諏訪家墓所は、信濃国一宮諏訪大社の神職や諏訪の領主として古代以来の氏族である信濃国高島藩主の諏訪家代々の墓所である。初代藩主頼水(よりみず)とその両親の墓がある頼岳寺(らいがくじ)と、2代以降の墓のある温泉寺(おんせんじ)に分かれる。頼岳寺は霧ヶ峰山塊の永明寺山(えいめいじやま)西麓にあって、中世から戦国時代の諏訪氏の拠点である上原城跡が近くにある。温泉寺は諏訪湖を西に望む諏訪盆地縁辺にあり、藩主居城の高島城跡から北東1.3kmにある。 諏訪氏は代々諏訪大社の大祝(おおほうり)を務め、鎌倉時代は得宗の被官であり、室町時代には幕府奉行人を務めた。その後、戦国大名となった諏訪頼重が惣領と大祝を兼ねたが天文11年(1542)に武田晴信に滅ぼされた。頼重の従弟頼忠は天文16年(1547)諏訪上社の大祝職に就き、天正11年(1583)に徳川家康に諏訪の本領を安堵され、家康に従って天正18年(1590)の小田原攻めに参加した。間もなく子頼水と武蔵国奈良梨(ならなし)へ、ついで上野国惣社に移った。頼水は関ヶ原の戦いの際には秀忠に従い信濃上田城を攻め、父頼忠は江戸城を守った。その功で頼水は慶長6年(1601)に旧領の諏訪の領地2万7千石を与えられ初代高島藩主となった。以後、諏訪家は明治維新まで藩主を代々務めた。頼忠が慶長10年(1605)に亡くなると、頼水は諏訪氏の菩提寺である永明寺に父を葬るが、寛永8年(1631)に頼岳寺を開基し父頼忠(よりただ)、母理昌院(りしょういん)を改葬した。その後、頼水は高島城下に菩提寺を建てようとしたが亡くなったため、頼忠のそばに葬られた。2代忠恒(ただつね)は、慶安2年(1649)に菩提寺として温泉寺を高島城下に建立した。忠恒が明暦3年(1657)に江戸で没しても温泉寺に葬られ、以降の藩主は江戸で死去しても温泉寺で葬られた。ここには2代忠恒から8代忠恕(ただみち)までが葬られ明治維新を迎える。 頼岳寺の墓所は、本堂左脇に設置された石階段の参道を上がったところにあり、その正面に御霊屋(おたまや)がある。桁行約8.2m、梁行約3.6mの木造平屋建で、入母屋造瓦葺で軸部と外側の壁を朱塗りした建物である。御霊屋は3室に区分され、中央に頼忠、右に理昌院の部屋があり、それぞれ宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔(ごりんとう)を一対とする組み合わせである。左に頼水の部屋があり、安山岩製の石廟が収められ、石碑が収まっている。現在の御霊屋は安政6年(1859)に頼岳寺が焼失した後に再建されたものである。 温泉寺の墓所は、寺の裏の小谷最奥部にあり、2代から8代の墓所のほかに室や子息の墓、藩士たちが寄進した石灯籠が数多く並んでいる。墓所は3段の平場に造成され、藩主墓は上段にある。藩主の墓標は基壇を含めて高さが約3mあり、方形3段の基壇の上に、頂部が丸い舟形(ふながた)の標身(ひょうしん)を置く。2代忠恒の墓には3代忠晴が寛文13年(1673)に建立した木造宝形造の御霊屋があったが、平成19年の修理のため現在は解体されている。忠恒の墓標には、戒名の刻字部分は金泥、標身の継ぎ目には漆喰が充填されている。また、諏訪市教育委員会による発掘調査で8代忠恕墓の前面に石畳の参道を検出した。 以上のように高島藩主諏訪家墓所は、古代以来の氏族でありその後戦国大名から徳川幕府の譜代大名に転じ、江戸時代を通して転封がなかった諏訪家の墓所で、江戸で没しても諏訪で葬られ、墓標は巨大で形状は独特のものである。よって近世大名の墓所の在り方を知る上で希な存在であり、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。