国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
面縄貝塚
ふりがな
:
おもなわかいづか
面縄貝塚(遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
縄文
年代
:
西暦
:
面積
:
33376.3 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
鹿児島県
所在地(市区町村)
:
鹿児島県大島郡伊仙町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
面縄貝塚(遠景)
解説文:
詳細解説
徳之島(とくのしま)最南端の珊瑚礁の浅海に面した海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する,縄文時代後期(貝塚時代前(ぜん)4期)を中心とした集落跡である。
昭和3年(1928)に発見された当初から,九州島と沖縄地域を繋ぐ土器群が出土したことから,奄美地域の地理的・歴史的な重要性が注目された。
遺跡は,弥生時代の箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)や古墳時代後半期から古代(貝塚時代後期)に属する貝層が存在する崖下と洞穴に立地する第一貝塚,縄文時代後期の居住域である海岸砂丘上の第二貝塚,奄美地域の古墳時代後半期から古代にかけて分布する兼久(かねく)式土器の標識遺跡である第三貝塚,縄文時代中期から後期にかけての崖下と洞穴及びその前面の斜面部から成る第四貝塚によって構成される。奄美・沖縄地域の縄文時代における海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する集落遺跡の典型であり,九州島と沖縄地域との間に位置することから,両者の関係性の解明にとって重要な存在である。さらに,昭和初期より奄美・沖縄地域の縄文時代研究において常に中心的な役割を果たしてきた意義も大きい。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
面縄貝塚(遠景)
面縄貝塚(集石)
面縄貝塚(出土遺物)
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面縄貝塚(遠景)
写真一覧
面縄貝塚(集石)
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面縄貝塚(出土遺物)
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解説文
徳之島(とくのしま)最南端の珊瑚礁の浅海に面した海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する,縄文時代後期(貝塚時代前(ぜん)4期)を中心とした集落跡である。 昭和3年(1928)に発見された当初から,九州島と沖縄地域を繋ぐ土器群が出土したことから,奄美地域の地理的・歴史的な重要性が注目された。 遺跡は,弥生時代の箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)や古墳時代後半期から古代(貝塚時代後期)に属する貝層が存在する崖下と洞穴に立地する第一貝塚,縄文時代後期の居住域である海岸砂丘上の第二貝塚,奄美地域の古墳時代後半期から古代にかけて分布する兼久(かねく)式土器の標識遺跡である第三貝塚,縄文時代中期から後期にかけての崖下と洞穴及びその前面の斜面部から成る第四貝塚によって構成される。奄美・沖縄地域の縄文時代における海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する集落遺跡の典型であり,九州島と沖縄地域との間に位置することから,両者の関係性の解明にとって重要な存在である。さらに,昭和初期より奄美・沖縄地域の縄文時代研究において常に中心的な役割を果たしてきた意義も大きい。
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詳細解説
面縄貝塚は、徳之島(とくのしま)最南端の珊瑚礁の浅海に面した海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する、縄文時代後期(貝塚時代前(ぜん)4期)を中心に縄文時代前期(貝塚時代前2期)から古代(貝塚時代後(こう)2期)まで継続する集落跡である。 この遺跡は、昭和3年に発見されるとその後すぐに数度の発掘調査が行われた。そして、昭和8年には『史前学雑誌(しぜんがくざっし)』上において、九州南部の出水式(いずみしき)土器や市来式(いちきしき)土器と沖縄地域の伊波式(いはしき)土器とを繋ぐ土器群が出土したことが報じられると、奄美地域の地理的・歴史的な重要性が全国的に注目されることとなった。またこのことは、当時盛んに議論された日本人起源論の南方起源説にも大きな影響を与えた。戦後は昭和30年より、九学会連合(きゅうがっかいれんごう)による発掘調査が3箇年行われ、遺跡北西部の崖下と洞穴を第一貝塚、遺跡南西部の標高8mの海岸砂丘上を第二貝塚、遺跡東部の崖下と洞穴及びその周辺の斜面地を第三貝塚、遺跡北部の崖下と洞穴及びその周辺の斜面地を第四貝塚として区分した。そして、これに基づき昭和49年には河口貞徳(かわぐちさだのり)は、第四貝塚から出土した土器を縄文時代中期(貝塚時代前3期)の面縄前庭式(ぜんていしき)、縄文時代後期(貝塚時代前4期)の面縄東洞式(とうどうしき)、縄文時代晩期(貝塚時代前5期)の面縄西洞式(せいどうしき)の3類にそれぞれ分類・編年した。また、第三貝塚から出土した土器については、現在では奄美地域に分布する古墳時代後半期から古代(貝塚時代後2期)に属する土器と位置付けられているが、当時は弥生時代に属する土器として、その兼久(かねく)という字名から兼久式(かねくしき)土器を設定した。 このような状況を踏まえ、伊仙町教育委員会では、平成19年度から平成26年度まで遺跡の範囲と内容を確認する発掘調査を継続的に行い、平成27年度に総括報告書を刊行した。 第一貝塚からは、縄文時代後期の市来式土器をはじめオオツタノハ製貝輪や線刻文様のある貝製品、弥生時代の仰臥伸展葬(ぎょうがしんてんそう)による女性の埋葬人骨が収められた箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)、古墳時代後期から古代に属する純貝層、中世(グスク時代)に属する埋葬人骨2体などが出土した。 第二貝塚では、縄文時代後期に属する建物と考えられる竪穴状(たてあなじょう)遺構8基と石敷(いしじき)遺構1基、集石(しゅうせき)遺構6基、土坑(どこう)2基を確認した。出土遺物は各貝塚の中ではもっとも豊富で、土器は縄文時代後期の嘉徳式(かとくしき)土器が主体をなし、多様な貝製品やサメ歯製装身具などが出土した。 第三貝塚では明確な遺構は認められないが、洞穴や崖下では古墳時代後半期から古代にかけての混土貝層(こんどかいそう)を確認し、その下位の混土貝層からは縄文時代中期の土器や貝製品が出土した。斜面部については、上位から縄文時代晩期の、下位から縄文時代前期や中期の包含層を確認した。 第四貝塚についても明確な遺構は認められず、いずれも混土貝層の包含層から成るが、2箇所の洞穴及びその前面部からはそれぞれに型式の異なる土器が出土したことから、先述のように面縄前庭式・面縄東洞式・面縄西洞式が設定されている。 崖下に形成される第一貝塚・第三貝塚・第四貝塚の貝層については、本来は崖の上から投棄された生活残滓(ざんし)と考えられるが、崖の上の発掘調査では後世の畑地造成に伴う削平が著しく、その痕跡は確認できなかった。 また、貝類の分析からは、縄文時代前期から中後期にかけて、採集地点が海岸近接地から珊瑚礁の浅海の全域へと変化することが想定されている。これに対し、魚種については種類が増え、沖縄地域とは異なった奄美地域独特の特徴をうかがうこともできる。 このように面縄貝塚は、奄美・沖縄地域の海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する縄文時代を中心とした古代に至るまでの集落遺跡の典型であり、また、九州島と沖縄地域との間に位置して、両者の関係性の解明にとって重要な存在である。さらに、昭和初期より奄美・沖縄地域の縄文時代研究において常に中心的な役割を果たしてきた意義も大きい。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。