国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
北大東島燐鉱山遺跡
ふりがな
:
きただいとうじまりんこうざんいせき
北大東島燐鉱山遺跡(燐鉱石貯蔵庫 遠景)
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
大正~昭和
年代
:
西暦
:
面積
:
94149.08 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
沖縄県
所在地(市区町村)
:
沖縄県島尻郡北大東村
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
北大東島燐鉱山遺跡(燐鉱石貯蔵庫 遠景)
解説文:
詳細解説
大正8年(1919)から昭和25年(1950)まで,主に化学肥料の原料として重要視された燐鉱石(りんこうせき)を採掘した鉱山遺跡である。沖縄本島の東方約360kmの太平洋上に位置する北大東島の西端部に所在する。明治43年(1910),玉置半右衛門(たまおきはんえもん)が採掘を試みたが取り止めた後,大東島の経営権を取得した東洋製糖株式会社が大正8年(1919)から採掘を開始した。その後,昭和2年(1927)以降は大日本製糖株式会社が経営した。燐鉱石の積み出し量は,大正末期は1万トン前後であったが,その後増産し,第二次世界大戦中の昭和17年(1942)には最大の7万トン台に達した。大戦後,米国軍政府の直轄で採掘されたが,昭和25年(1950)に閉山した。現在も,採掘場,日乾堆積場,トロッコ軌道,ドライヤー建屋,燐鉱石貯蔵庫,積荷桟橋(つみにさんばし),船揚げ場,火薬庫等,燐鉱石の採掘・乾燥・運搬・貯蔵・積出に至る生産施設が大規模に残る。これほど大規模に燐鉱生産施設が残るのは北大東島のみであり,唯一国内に現存するものとして貴重である。我が国近代農業を支えた燐鉱採掘産業の歴史を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
北大東島燐鉱山遺跡(燐鉱石貯蔵庫 遠景)
北大東島燐鉱山遺跡(燐鉱石貯蔵庫)
北大東島燐鉱山遺跡(積荷桟橋)
北大東島燐鉱山遺跡(西港荷上場跡と船揚げ場)
写真一覧
北大東島燐鉱山遺跡(燐鉱石貯蔵庫 遠景)
写真一覧
北大東島燐鉱山遺跡(燐鉱石貯蔵庫)
写真一覧
北大東島燐鉱山遺跡(積荷桟橋)
写真一覧
北大東島燐鉱山遺跡(西港荷上場跡と船揚げ場)
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
大正8年(1919)から昭和25年(1950)まで,主に化学肥料の原料として重要視された燐鉱石(りんこうせき)を採掘した鉱山遺跡である。沖縄本島の東方約360kmの太平洋上に位置する北大東島の西端部に所在する。明治43年(1910),玉置半右衛門(たまおきはんえもん)が採掘を試みたが取り止めた後,大東島の経営権を取得した東洋製糖株式会社が大正8年(1919)から採掘を開始した。その後,昭和2年(1927)以降は大日本製糖株式会社が経営した。燐鉱石の積み出し量は,大正末期は1万トン前後であったが,その後増産し,第二次世界大戦中の昭和17年(1942)には最大の7万トン台に達した。大戦後,米国軍政府の直轄で採掘されたが,昭和25年(1950)に閉山した。現在も,採掘場,日乾堆積場,トロッコ軌道,ドライヤー建屋,燐鉱石貯蔵庫,積荷桟橋(つみにさんばし),船揚げ場,火薬庫等,燐鉱石の採掘・乾燥・運搬・貯蔵・積出に至る生産施設が大規模に残る。これほど大規模に燐鉱生産施設が残るのは北大東島のみであり,唯一国内に現存するものとして貴重である。我が国近代農業を支えた燐鉱採掘産業の歴史を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
北大東島燐鉱山遺跡は、大正8年(1919)から昭和25年(1950)まで、燐鉱石を採掘した遺跡であり、沖縄本島の東方約360kmの太平洋上に位置する北大東島の西端部に所在する。 19世紀代、肥料原料として火成の燐鉱石や、鳥糞の堆積物に由来するグアノ(guano)が世界的に注目されるようになり、20世紀に入ると、太平洋の島嶼において、ヨーロッパ諸国によるグアノ採掘が本格化した。日本においても、明治40年(1907)に南鳥島(みなみとりしま)(東京都)、能登島(のとじま)(石川県)で小規模な採掘が行われたがすぐに廃鉱となり、明治44年(1911)、沖大東島(おきだいとうじま)(ラサ島、沖縄県北大東村)において本格的な採掘が行われるようになった。 当時、八丈島出身で実業家の玉置半右衛門(たまおきはんえもん)は、無人であった南北両大東島の借地権を国から得て、主に南大東島を開拓していたが、沖大東島の燐鉱発見に触発され、明治43年に北大東島で燐鉱採掘を開始するも、技術面の未熟さから事業を取り止めた。彼の没後の大正5年(1916)、大東島の経営権を玉置商会から取得した東洋製糖(とうようせいとう)株式会社は、第一次世界大戦により輸入が途絶えた燐鉱石の価格急騰に刺激され、大正7年(1918)、採掘計画を立てて設備工事に着手、翌年にほぼ施設は完成して稼働を始めた。これと前後して、北大東島は国から玉置商会に払い下げられ、さらに東洋製糖に譲渡された。 北大東島の燐鉱石は燐酸礬土鉱(りんさんばんどこう)と呼ぶ種類が豊富であったが、鉄アルミナ分の含有量が多く、過燐酸石灰(かりんさんせっかい)の原料に適さないことから、東洋製糖が開発した「燐酸アルミナ」は当初販売が振るわなかった。しかし、改良が進むにつれ売れ行きが増加し、原料鉱石の需要も年々増加した。採掘場は島の西部に位置する黄金山(こがねやま)から西港(にしこう)付近までの玉置平(たまおきだいら)に広範囲に設けられ、そこからトロッコ軌道が西港まで敷設され、途中には水分を含んだ燐鉱石を乾燥させる堆積場があった。西港には、貯蔵施設や火力乾燥場、島外への搬出施設等が設けられていた。 昭和2年(1927)、金融恐慌の影響により東洋製糖は大日本製糖(だいにほんせいとう)株式会社に合併し、大東島の経営は同社が握った。燐鉱石の積み出し量は、大正末期は1万トン前後であったが、沖大東島の一時閉山期を挟んで3~4万トンとなった。太平洋戦争により燐鉱石の輸入が途絶すると、生産量は拡大し、昭和17年(1942)には最大の7万トン台に達した。第二次世界大戦後、燐鉱施設は米国軍政府により接収され、鉱山の経営はその直轄で行われたが、燐鉱石の品質低下を招いて市場の評価が下がり、昭和25年(1950)、閉山となった。 北大東村教育委員会では、平成25年度から27年度にかけて、燐鉱産業に由来する村内の文化的景観の調査研究を実施した。今回、その成果に基づき、燐鉱産業遺跡のうち、採掘・乾燥・運搬・貯蔵・積出に至る一連の生産施設の保存を図るものである。 島内の採掘場のほとんどは戦後埋め戻され、サトウキビ畑として利用されている。現存する黄金山採掘場跡は、西港から東南に0.8kmの地点に位置し、面積約4.5ha、露天掘(ろてんぼ)りにより造形された階段状の窪地が随所にあり、凹凸の激しい地形となっている。垂直坑も確認され、中央部にはトロッコ軌道やトンネルが現存する。採掘場の西北方、西港生産施設に隣接して日乾堆積場跡がある。採掘場から燐鉱石をこの場所に運搬し、水分を含む燐鉱石を地面の上に広げ、天日乾燥させた場所である。今も閉山後放置された燐鉱石の堆積露頭(ろとう)を観察することができる。堆積場前面の道路はトロッコ軌道を踏襲した軌道跡である。西港生産施設群は、燐鉱石の乾燥・貯蔵・積出といった一連の生産を担った施設群である。燐鉱石を熱風により乾燥させる回転式乾燥機を設置したドライヤー建屋跡、火力乾燥場跡及び水タンク跡、燐鉱石貯蔵庫跡(登録有形文化財)、燐鉱石を積み出すための積荷桟橋(つみにさんばし)跡(通称象の鼻、登録有形文化財)、物資の搬出入を行った荷揚げ場跡、岩礁を切り開いて斜路を設け、海上から艀(はしけ)を引き上げた船揚げ場跡、艀倉庫及び造船場跡、火薬庫跡等が残る。燐鉱山遺跡に関する史資料類、写真等も多く残っており、往時の様相を知ることが可能である。 このように、北大東島燐鉱山遺跡は、大正時代から戦後直後まで、主に化学肥料の原料として重要視された燐鉱石に関わる遺跡であり、採掘から積出に至る一連の生産施設が大規模に残る。現在、これほど大規模に燐鉱生産施設が残るのは北大東島のみであり、唯一国内に現存するものとして貴重である。我が国近代農業を支えた燐鉱採掘産業の歴史を知る上で重要であることから、史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。