国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
横山大観旧宅及び庭園
ふりがな
:
よこやまたいかんきゅうたくおよびていえん
横山大観旧宅及び庭園
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種別1
:
史跡
種別2
:
名勝
時代
:
大正~昭和
年代
:
西暦
:
面積
:
1378.96 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
8
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園,八.砂丘、砂嘴(さし)、海浜、島嶼
所在都道府県
:
東京都
所在地(市区町村)
:
東京都台東区
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
横山大観旧宅及び庭園
解説文:
詳細解説
近代日本を代表する画家横山大観(1868~1958)の自宅兼画室及び庭園で,不忍池の西に位置する。大観は東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し,明治39年(1906)に,日本美術院を設立した岡倉天心とともに茨城県五浦に移る。その2年後に居宅が火災で全焼したため,東京の下谷区に仮寓を得,翌年この地に本宅を構え,死去するまでここで日本画の創作を行った。
住居は,昭和20年(1945)の東京大空襲で蔵を残して焼失したが,同29年(1954)に大観の強い意思によってほぼ同じ形に再建された。 木造2階建ての数寄屋風日本家屋で,1階部分には焼失前にもあったものを再現した客間の鉦鼓洞(しょうこどう)などがある。2階は画室で,窓を多く設けて自然光を十分に採り入れている。
主庭は建物の南側に広がり,中央部に細長く折れ曲がる池泉を設ける。建物から見て右奥には築山が築かれ,その前には細川護立(もりたつ)侯爵から贈られた庭石を据える。大観は庭園に植栽する樹木について,自らスケッチで示し,植栽時にも植える位置や向きを指示した。また,樹木などの庭園内の素材を多く画題に選んでいる。
自然の風情を好んだ大観の思想及び感性が大きく反映され,日本の近代の美術史及び造園史の展開を考える上で貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
横山大観旧宅及び庭園
横山大観旧宅及び庭園(主庭)
横山大観旧宅及び庭園(再建した家屋)
横山大観旧宅及び庭園(鉦鼓洞)
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横山大観旧宅及び庭園
写真一覧
横山大観旧宅及び庭園(主庭)
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横山大観旧宅及び庭園(再建した家屋)
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横山大観旧宅及び庭園(鉦鼓洞)
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解説文
近代日本を代表する画家横山大観(1868~1958)の自宅兼画室及び庭園で,不忍池の西に位置する。大観は東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し,明治39年(1906)に,日本美術院を設立した岡倉天心とともに茨城県五浦に移る。その2年後に居宅が火災で全焼したため,東京の下谷区に仮寓を得,翌年この地に本宅を構え,死去するまでここで日本画の創作を行った。 住居は,昭和20年(1945)の東京大空襲で蔵を残して焼失したが,同29年(1954)に大観の強い意思によってほぼ同じ形に再建された。 木造2階建ての数寄屋風日本家屋で,1階部分には焼失前にもあったものを再現した客間の鉦鼓洞(しょうこどう)などがある。2階は画室で,窓を多く設けて自然光を十分に採り入れている。 主庭は建物の南側に広がり,中央部に細長く折れ曲がる池泉を設ける。建物から見て右奥には築山が築かれ,その前には細川護立(もりたつ)侯爵から贈られた庭石を据える。大観は庭園に植栽する樹木について,自らスケッチで示し,植栽時にも植える位置や向きを指示した。また,樹木などの庭園内の素材を多く画題に選んでいる。 自然の風情を好んだ大観の思想及び感性が大きく反映され,日本の近代の美術史及び造園史の展開を考える上で貴重である。
詳細解説▶
詳細解説
横山大観旧宅及び庭園は、近代日本を代表する画家横山大観(1868~1958)の自宅兼画室及び庭園である。東京の本郷台地の崖線下に位置し、東には不忍池が広がっている。大観は、明治41年(1908)に最初にこの地に居住してから、死去する昭和33年(1958)までの大半の期間をここで過ごし、創作に励んだ。 明治元年(1868)に水戸に生まれた大観は、明治22年(1889)に東京美術学校(現、東京藝術大学)に一期生として入学し、岡倉天心や橋本雅邦らに師事した。卒業後、明治29年(1896)に東京美術学校助教授に就任するが明治31年(1898)に天心が東京美術学校の校長を辞職すると、天心、下村観山らと東京市下谷区谷中初音町(現、台東区谷中)に日本美術院を設立する。明治39年(1906)に天心の主導で日本美術院が茨城県五浦に移ると、大観も行動を共にし居を移した。しかし2年後の明治41年(1908)に五浦の居宅が火災により全焼したため、東京の下谷区池之端茅町に仮寓を得、翌年この地に本宅を構えた。その後、大観は大正3年(1914)に日本美術院を再興し、日本画の創作を意欲的に行った。昭和12年(1937)には最初の文化勲章を受けている。 大正7年(1918)にそれまで賃借していた敷地を購入した大観は、すぐに新居の建築に着手する。住居は翌年に完成し、その後庭園の造営が進められた。住居は、昭和20年(1945)の東京大空襲によって蔵を残して焼失したが、同29年(1954)に大観の強い意思によってほぼ同じ形に再建された。庭園についても空襲の被害は大きく、樹木の多くが失われたが、基本的な地割りは損壊を免れた。その後住居の再建にあわせて庭園も修理され、その際に池泉の一部を縮小したものの、ほぼ旧態に復された。 現存建物は東西に長い、木造2階建ての数寄屋風日本家屋である。1階部分には客間である鉦鼓洞(しょうこどう)、寝室、茶の間、台所などがある。鉦鼓洞は焼失以前の大正8年完成の邸宅にもあり、空襲で焼け残った基礎の上に元どおりに再建された。母屋から南側に張り出し、床は基礎の石組みによって高い位置に造られている。2階は画室になっており、東側と南側に窓を設け、東側の窓からは不忍池を望むことができる。窓を多く設け、自然光を充分に採り入れている。大観は最晩年に膝を痛めて階段の上り下りが困難になるまで、この画室で創作した。 庭園は、前庭、玄関前庭、坪庭、主庭などから成る。不忍通りに面した表門を入ると、前庭が広がり、右方向へ石敷の園路が続く。左手にさざれ石が据えられ、ヤマモモなどが植栽されている。園路を進むと塀で区切られた玄関前庭に至る。玄関前庭には石幢(せきどう)を置き、ウメなどを植えている。主庭は建物の南側に広がり、中央部に細長く折れ曲がる池泉を設ける。以前は池泉の一部が邸宅の下まで入り込んでいたが、昭和29年の再建時に縮小され、現在の形になった。建物から見て右手奥には築山が築かれ、その前には細川護立(もりたつ)侯爵から贈られた「細川石」と呼ばれる庭石を据える。また、築山の上には滝石組が造られているが、現在水は流れていない。西側にある滝石組の傍らには小杉(こすぎ)未醒(みせい)から譲り受けた石灯籠「無月燈籠(むげつとうろう)」が置かれている。植栽については、作庭当初造った竹林が枯れたため、松林が造られたが、やがて松林も枯れ、その後は紅白のウメなどが植えられたという。大観は庭園に植栽する樹木について、樹種・大きさ・樹形をスケッチで示して、植栽時にも植える位置や向きを指示した。また、庭園内の樹木の剪定を行わなかったという。 大観は樹木などの庭園内の素材を多く画題に選んでいるが、そこに表現されたものは自然の中に見られる情景であり、大観は庭園の中に自然を見ていたと考えられる。例えば代表作の一つである大正12年(1923)の「生々流転」(重要文化財)には画中に洞のある樹木や祠が描かれているが、これらは現存するシイや昭和20年に焼失した鉦鼓洞稲荷に取材したものと考えられている。また昭和32年(1957)の「紅梅」は玄関前庭に現存するウメに取材した作品である。 以上のように、横山大観旧宅及び庭園は、大観が自ら指示して造営した邸宅及び庭園であり、自然の風情を好んだ大観の思想及び感性が大きく反映されている。実際に創作が行われた場でもあり、庭園内の素材に取材したと考えられる作品も多い。日本の近代の美術史及び造園史の展開を考える上で貴重であることから、史跡及び名勝に指定し保護を図ろうとするものである。