国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
旧龍性院庭園
ふりがな
:
きゅうりゅうしょういんていえん
旧龍性院庭園(全景)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
1378.4 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
9
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
愛知県
所在地(市区町村)
:
愛知県豊田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
旧龍性院庭園(全景)
解説文:
詳細解説
愛知県豊田市の猿投山(さなげやま)(標高629m)の南麓に位置する,近世に造られたと考えられる庭園。龍性院は猿投神社の神宮寺の1つであったが,廃仏毀釈により廃寺となり,その際に建築物は取り壊されたものの庭園は破却を免れた。近年行われた調査によって,地割,石組等が旧態を良好にとどめ,江戸期の絵図とよく一致することが確認された。
庭園は東側にあった客殿からの観賞を主とする。右手奥に最も大きな築山が築かれ,その裾に近いところに滝が造られている。築山は左奥にもあり,右手の築山と左奥の築山との間をなだらかな峰が結ぶ。池泉には出島,岬等が造られ,護岸の石組は入り組んだ曲線を描き,随所に大ぶりの石が配されている。現在は水が涸れており,取水及び排水の経路も分からなくなっているが,石組護岸がよく残り,石橋も往時のまま架かる。使用されている石の大部分は猿投山付近で採取されたもので,一部には東濃地方(土岐市・瑞浪市・多治見市周辺)のものも含まれている。
旧龍性院庭園は近世の三河地域の庭園文化の広がりを示す良い事例であり,その芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧龍性院庭園(全景)
旧龍性院庭園(遠景)
旧龍性院庭園(石橋・築山)
旧龍性院庭園(築山)
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旧龍性院庭園(全景)
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旧龍性院庭園(石橋・築山)
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旧龍性院庭園(築山)
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解説文
愛知県豊田市の猿投山(さなげやま)(標高629m)の南麓に位置する,近世に造られたと考えられる庭園。龍性院は猿投神社の神宮寺の1つであったが,廃仏毀釈により廃寺となり,その際に建築物は取り壊されたものの庭園は破却を免れた。近年行われた調査によって,地割,石組等が旧態を良好にとどめ,江戸期の絵図とよく一致することが確認された。 庭園は東側にあった客殿からの観賞を主とする。右手奥に最も大きな築山が築かれ,その裾に近いところに滝が造られている。築山は左奥にもあり,右手の築山と左奥の築山との間をなだらかな峰が結ぶ。池泉には出島,岬等が造られ,護岸の石組は入り組んだ曲線を描き,随所に大ぶりの石が配されている。現在は水が涸れており,取水及び排水の経路も分からなくなっているが,石組護岸がよく残り,石橋も往時のまま架かる。使用されている石の大部分は猿投山付近で採取されたもので,一部には東濃地方(土岐市・瑞浪市・多治見市周辺)のものも含まれている。 旧龍性院庭園は近世の三河地域の庭園文化の広がりを示す良い事例であり,その芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
詳細解説▶
詳細解説
旧龍性院庭園は、愛知県豊田市の猿投山(さなげやま)(標高629m)の南麓に位置する。 龍性院は猿投神社の神宮寺の1つで、14世紀開創と考えられている。正徳4年(1714)の『龍性院檀那帳(りゅうしょういんだんなちょう)』(猿投神社蔵)には、檀那の数が831軒と記載されており、その範囲は近在の町村のみならず江戸にまで及んだ。廃仏毀釈により慶応4年(1868)に廃寺となり、その際に建築物は取り壊されたが庭園は破却を免れた。 龍性院庭園の造営時期を直接記した文書類は確認されていないが、『心腑秘蔵記(しんぷひぞうき)』(個人蔵)の寛政7年(1795)の条に「龍院ノ池」等の記載があることから、18世紀末には庭園が存在していたことがうかがえる。また、1830~60年頃の制作と推定される『龍性院家相図(りゅうしょういんかそうず)』(個人蔵)には、客殿等の建築物と庭園が描かれているが、発掘調査の結果から客殿等の建築時期は17世紀前半と推察され、庭園と建築物の位置関係を考慮すると庭園もその頃に造られたと考えられる。 猿投山の南麓に位置する旧龍性院庭園は、敷地の外側を籠川(かごがわ)が流れる。籠川は旧龍性院より上流部では猿投川と呼ばれ、旧龍性院の西側付近で籠川と名を変える。南に向かって流れていた籠川は旧龍性院の南西角で東に直角に流路を変更する。 庭園は東側にあった客殿から観賞するように造られている。右手奥に最も大きな築山を築き、その裾に近いところに滝を造る。築山は左奥にもあり、右手の築山と左奥の築山との間をなだらかな峰が結ぶ。『龍性院家相図』には左奥の築山の上に草庵風の建物が描かれており、その礎石と考えられる石材が現在も残っている。更に左奥の築山の手前にもう1つ築山が造られている。滝から続く池の形は左右に長く、左端で手前に直角に折れ曲がる。池泉には出島、岬等が造られ、護岸の石組は、随所に大ぶりの石を配置しながら入り組んだ曲線を描く。水は現在涸れており、取水及び排水の経路も分からなくなっているが、護岸の石組の残りは良く、石橋も往時のまま架かる。石の大部分は猿投山付近で採取されたものであるが、東濃地方(土岐市・瑞浪市・多治見市周辺)のものも一部ある。植栽については、当時のもので残っているものはないが、『龍性院家相図』を見ると、マツ類、円柱状・四角柱状・半球状に刈り込んだ中低木類が植えられていたようである。 旧龍性院庭園の近世の様子は、『龍性院家相図』から知ることができる。現況と比較すると、図中にある池泉の中島がなくなっており、植栽も当時のものはないものの、地割り、石組等はよく残っている。図中には庭園の東側に客殿及び離れが描かれているが、前述したとおり、それらは廃仏毀釈により取り壊された。なお、平成25年度に豊田市教育委員会によって行われた発掘調査で、客殿の礎石の据付穴と考えられる遺構が確認された。 旧龍性院庭園は、廃仏毀釈による破却は免れたものの、その後の年月の中で様相が変わってしまった。しかし、近年行われた調査によって、地割り、石組等は、旧態を良好にとどめ、江戸期の絵図とよく一致することが確認された。 以上のように、旧龍性院庭園は、近世の状況をよく伝え、当時の三河地域の庭園文化の広がりを示す良い事例である。その芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高く、名勝に指定して保護を図ろうとするものである。