国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
加曽利貝塚
ふりがな
:
かそりかいづか
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種別1
:
特別史跡
種別2
:
時代
:
縄文
年代
:
西暦
:
面積
:
151104.34 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
特別
指定年月日
:
1971.03.22(昭和46.03.22)
特別指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
千葉県
所在地(市区町村)
:
千葉県千葉市
保管施設の名称
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所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
縄文時代中期の貝塚を含む環状集落と後期の貝塚を含む馬蹄形集落から成る国内最大級の縄文時代の集落跡。考古学の研究史における重要性,埋蔵文化財保護の歴史,埋蔵文化財の整備と活用に関する先駆性,教科書等を通しての全国的な知名度等の様々な観点から,我が国文化の象徴として特に重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
縄文時代中期の貝塚を含む環状集落と後期の貝塚を含む馬蹄形集落から成る国内最大級の縄文時代の集落跡。考古学の研究史における重要性,埋蔵文化財保護の歴史,埋蔵文化財の整備と活用に関する先駆性,教科書等を通しての全国的な知名度等の様々な観点から,我が国文化の象徴として特に重要である。
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詳細解説
加曽利貝塚は、東京湾東岸の北部でも、東京湾に注ぎ込む都川(みやこがわ)の支流である坂(さか)月(つき)川(かわ)の右岸、標高30mの河岸段丘上に立地し、縄文時代中期に属する直径140mの環状の北貝塚と、縄文時代後期に属する長径190mの馬蹄(ばてい)形(けい)状の南貝塚を含む、国内最大級の縄文時代を代表する集落跡である。 この遺跡は、明治20年に『東京人類学雑誌』に初めてその存在が紹介されて以降、大正年間まで発掘調査と報告が何度か行われた。特に、大正11年の大山史前(おおやましぜん)学(がく)研究所による発掘調査では、貝塚の規模と8字状の形態が明らかになり、大正13年の東京帝国大学人類学教室の発掘調査では、後に縄文時代中期後葉の加曽利E式や後期中葉の加曽利B式の設定に繋がる基本資料が得られたことは有名である。 昭和30年代に入ると遺跡の周辺地で宅地開発が急速に進んだため、千葉市教育委員会は昭和37年から遺跡の重要性を明確にするために、北貝塚の発掘調査を始めた。そして、発掘現場の一般公開、日本考古学協会での報告、度重なるマスコミ報道等によりその重要性が広く知れわたるようになり、昭和38年には署名活動を中心に保存運動が全国的に広がり、また、国会においても保存に関する審議が行われたことを契機に、千葉市は昭和39年には北貝塚を公有化するとともに、近接地への博物館建設も決定した。 一方、南貝塚については、加曽利貝塚調査団による発掘調査が昭和39年から開始され、昭和40年には北貝塚と同様な経過により保存が決定し、さらにその後、遺跡の範囲と内容を確定するための発掘調査を継続した。その結果、両貝塚を含む国内最大級の集落の全体像が明らかになるとともに、関東地方の縄文土器編年上の標識遺跡として、まずは北貝塚部分が昭和46年に、次に南貝塚部分が昭和52年に史跡に指定された。 このような経緯を踏まえ、千葉市教育委員会では平成24・26年度にさらに保護すべき範囲を確定させるための発掘調査を行い、平成28年度には追加指定を進め、総括報告書も刊行した。その結果、以下のことが明らかになった。 この遺跡は、縄文時代早期から中期前葉までは断続的に小規模な集落が営まれ、中期中葉以降に遺跡の北側で貝塚を含めた集落の規模が大きくなる。そして、北貝塚については、中期後葉に貝塚形成のピークを迎え、居住域は北貝塚の周辺にも広がる。南貝塚については、後期前葉から中葉にかけて貝塚形成がピークを迎え、居住域は南貝塚の周辺にも広がるが、その後、後期後葉以降は徐々に集落規模が縮小し、居住域は貝塚の内側に移り、晩期中葉を最後にこの遺跡は終焉を迎える。墓については、70体の埋葬人骨が検出されたが、それらは集中して墓域を形成することはない。このなかには4体が埋葬された廃屋墓や、腰飾を装着した男性人骨もある。また、14体の埋葬犬の事例は、人との関りを示すものとして古くから有名である。 遺物としては、縄文土器は加曽利E式や加曽利B式はもちろん、中期前葉の阿(あ)玉(たま)台(だい)式から晩期中葉の安行(あんぎょう)3式まで途切れることなく豊富である。土(ど)製品(せいひん)としては、土偶や土製耳飾は後期中葉の事例が多い。石器は、石(せき)鏃(ぞく)・磨製(ませい)石(せき)斧(ふ)・打製(だせい)石(せき)斧(ふ)・石(いし)皿(ざら)・台石(だいいし)・磨(すり)石(いし)・敲(たたき)石(いし)・砥石(といし)等が豊富で、石(せき)製品(せいひん)としては、石(せき)棒(ぼう)・独鈷(どっこ)石(いし)・ヒスイ製玉類(たまるい)等がある。骨角製品(こっかくせいひん)としては、簪(かんざし)・垂飾(すいしょく)といった装身具類や、刺突(しとつ)具(ぐ)・骨鏃(こつぞく)・釣針(つりばり)・針(はり)等といった道具類がある。貝(かい)製品(せいひん)では、貝刃(かいじん)・貝(かい)輪(わ)・ヘラ状製品等がある。これらのなかで、糸魚川(いといがわ)産のヒスイ製品や南海(なんかい)産のオオツタノハ製貝輪等は、当時の広域交流を示す遺物として注目される。 動物遺存体では、哺乳類ではイノシシ・ニホンジカが圧倒的に多く、イヌ・タヌキ・ネズミ・ニホンザル・ノウサギが、海生哺乳類ではクジラ・イルカも少量認められる。鳥類ではコウノトリ・カモがある。魚類ではクロダイが大半を占め、これにスズキ・コチ等が続く。貝類では、イボキサゴ・ハマグリを中心に、アサリ・シオフキを含めた4種が大半を占める。特に、南貝塚で見られるハマグリの幼貝採取や、東京湾ではほとんど食用にされないウミニナ科やオキシジミの採取は、縄文時代後期における貝資源の枯渇を想定させる。 加曽利貝塚博物館は昭和41年の開館以来、このような遺跡情報に基づく市民参加型の各種体験学習を継続的に実施し、また、最新の調査研究成果を逐次全国に発信するなど、埋蔵文化財の活用についてはパイオニア的存在である。保存科学技術を駆使して貝塚断面を直接見ることを可能にした整備手法については、その後の遺跡整備の考え方や手法に大きな影響を与えた。さらに、中学や高校の教科書にも、その名前だけでなく写真も掲載され、知名度も極めて高い。 以上のように、加曽利貝塚は、貝塚を含む集落遺跡としては、東京湾東岸に集中する大型環状・馬蹄形貝塚群のなかではもちろん全国的にみても、その規模は最大級であり、集落全体が極めて良好な状態で遺存している。また、縄文時代中期中葉から晩期中葉までの集落変遷も追える稀有な事例でもある。さらに、遺構や遺物からは当時の生業や食生活の内容、動物遺存体からは古環境、石製品等からは他地域との広域交流の復元も可能である。 このように、加曽利貝塚は考古学史的な意義や考古学的な重要性は極めて高く、そのうえ、埋蔵文化財保護の歴史、埋蔵文化財の整備・活用の在り方、知名度等からは、国民に親しまれた史跡として他に例のないほど特に重要な史跡である。今回、保護すべき範囲もほぼ追加指定が完了し、また、総括報告書が作成され遺跡の詳細な内容も明らかになった。よって、特別史跡に指定し、わが国文化の象徴として、さらに充実した保護を図ろうとするものである。