国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
入の沢遺跡
ふりがな
:
いりのさわいせき
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古墳前期
年代
:
西暦
:
面積
:
12711.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
宮城県
所在地(市区町村)
:
宮城県栗原市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
丘陵先端部という立地や大溝と材木塀に見られる高い防御性,当該期の大型古墳が副葬品として有するような各種遺物の存在からは,古墳時代前期後半におけるヤマト政権の東北政策を考える上で重要な大規模集落遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
丘陵先端部という立地や大溝と材木塀に見られる高い防御性,当該期の大型古墳が副葬品として有するような各種遺物の存在からは,古墳時代前期後半におけるヤマト政権の東北政策を考える上で重要な大規模集落遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
入の沢遺跡は、宮城県の北西部に広がる築館(つきだて)丘陵の東部でも、北上川(きたかみがわ)水系である一迫(いちはざま)川(がわ)と二迫(にはざま)川(がわ)の合流地点に向けて細長く伸びる標高49~51mの丘陵の先端部に立地する、古墳時代前期後半(4世紀後半)の大規模集落跡である。 この遺跡は、国道4号築館バイパスの建設に伴い平成26年4月から宮城県教育委員会が発掘調査を開始したが、東北地方では稀有な古墳時代前期後半の大規模集落跡であることが明らかになった。そこで宮城県教育委員会は、同年12月より発掘調査を中断して国土交通省及び栗原市と保存に関する協議を実施した結果、平成27年11月には全面を保存することで関係機関が合意した。 集落の構造は、標高49mと51mの二つの丘陵を取り囲むように、上面幅2.4~4.0m、底面幅1.0~2.0m、深さ4mの断面形態が逆台形になる大溝が、南東側は未確認であるが不整形ながら地形に合わせて総延長330mにわたって巡り、さらに、この大溝の内側には材木塀が平行して設置され、全体的には二重の防御構造を成す。なお、集落の北西部においては大溝が方形に突出する部分もあるが、その内部ではこの大溝と関連性が想定される施設等は存在しない。 確認した39棟の竪穴建物は密集して分布するが重複事例はわずかであることから、短期間のうちに計画的に配置されたと考えられる。このうち12棟において発掘調査を実施した結果、土屋根や建物部材が良好に遺存する焼失した5棟の竪穴建物を確認した。これらは焼失後に片付けが行われた痕跡がない状況やそれぞれに離れた位置関係にあることから、意図的に焼かれたものと推定される。 これら焼失建物のうち、平面プランが長方形で東西7.0m、南北6.2mの規模を有し、他の竪穴建物より一回り規模の大きいSI13竪穴建物は、壁際に溝が巡り、土坑や小溝が床面に敷設されるなど、他とは異なり複雑な床面構造を有している。そして、大型壺・壺・小型丸底(まるぞこ)壺(つぼ)・高杯(たかつき)・器(き)台(だい)・鉢・有孔(ゆうこう)鉢(はち)・甕といった多数の土師器(はじき)類の他に、珠(しゅ)文(もん)鏡(きょう)1面と櫛歯文鏡(くしばもんきょう)1面の銅鏡(どうきょう)、鉄剣(てっけん)4点・鉄(てつ)鏃(ぞく)2点・鉄斧(てっぷ)8点・刀子(とうす)1点・鉄製(てつせい)工具(こうぐ)7点等の鉄製品、垂飾(すいしょく)2点・勾玉(まがたま)11点・棗(なつめ)玉4点・丸玉(まるだま)2点・臼(うす)玉(だま)17点・管(くだ)玉(たま)91点等の石製装身具、砥石(といし)4点の道具類、繊維や水銀(すいぎん)朱(しゅ)等がまとまって出土したが、これらは当該期の大型古墳の副葬品と同様の内容であり、極めて特殊な存在である。また、他の竪穴建物からも、量的にはSI13竪穴建物ほどではないが同種の遺物が出土しており、特に、SI19竪穴建物から出土した内行花文鏡(ないこうかもんきょう)1面やSI27竪穴建物から出土した珠文鏡1面は注目される。 このように、入の沢遺跡は、周辺の平野部からは比高差23~26mの丘陵の先端部という立地と、大溝とその内側に平行する材木塀による施設が示すように、極めて防御性の高い大規模集落遺跡である。そのうえ、存続期間の短さや当該期の大型古墳が副葬品として有する品々を多数保有するなどの特殊性も窺うことができ、さらには、遺跡の遺存状態も極めて良好であり、当該期の東日本を見渡しても類例が極めて少ない遺跡として重要である。 この地域は、当該期においてはヤマト政権の勢力が及ぶ北限域に相当し、この地域周辺の丘陵部や北方には続縄文文化が存在する。したがって、ここに高い防御性を備え、そのうえヤマト政権との関係性が高い品々を多数保有する大規模集落が突如として現れ短期間で終焉する事実は、当該期におけるヤマト政権の東北政策の在り方や続縄文文化との関係性の解明といった、古墳文化の周辺及び境界領域における古墳文化の在り方を考える上で重要である。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。