国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
陸軍板橋火薬製造所跡
ふりがな
:
りくぐんいたばしかやくせいぞうしょあと
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
明治~昭和
年代
:
西暦
:
面積
:
12553.12 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
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指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
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追加年月日
:
指定基準
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六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
東京都
所在地(市区町村)
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東京都板橋区
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
明治9年(1876)に石神井川(しゃくじいがわ)沿いに造られ,終戦まで継続した陸軍の火薬工場跡及び火薬研究所跡。明治初期の官営工場の一つで,日本で初めて西洋科学を取り入れた火薬製作が行われたことで重要である。明治初期の試験射撃の的や昭和前期に建てられた爆薬理学試験室等が残る。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
明治9年(1876)に石神井川(しゃくじいがわ)沿いに造られ,終戦まで継続した陸軍の火薬工場跡及び火薬研究所跡。明治初期の官営工場の一つで,日本で初めて西洋科学を取り入れた火薬製作が行われたことで重要である。明治初期の試験射撃の的や昭和前期に建てられた爆薬理学試験室等が残る。
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詳細解説
陸軍板橋火薬製造所跡は、明治9年(1876)に開業し、昭和20年(1945)の終戦まで続いた官営の西洋式火薬製造所跡である。板橋区の南東端で、荒川水系の石神(しゃくじ)井川(いがわ)の両岸の谷底低地に位置する。 陸軍板橋火薬製造所は、明治4年(1871)に兵部省(ひょうぶしょう)が旧加賀藩江戸下屋敷の一部に土地を確保し、明治9年に砲兵本廠板橋属廠(ほうへいほんしょういたばしぞくしょう)として発足した、明治政府が初めて新設した火薬製造所であった。下屋敷では、屋敷内に石神井川が流れ込み、水車小屋が設置され大砲鋳造が行われていたが、製造所では江戸幕府がベルギーから購入していた圧磨機を使って、石神井川の水力を利用して黒色火薬を製造した。そして、明治10年(1877)に初めて検速儀を使った火薬試験射撃が行われた。これにより、火薬の性能を判定し、用途に応じた火薬の規格が定められた。明治新政府軍の火薬は旧薩摩藩から引き継がれた鹿児島の敷根火薬製造所で作られていたが、10年に勃発した西南戦争により敷根火薬製造所が破壊され、板橋が唯一の火薬製造所となった。明治12年(1879)には東京砲兵工廠火薬製造所となり、同15年(1882)に群馬県の岩鼻に火薬製造所が新設されたことから同板橋火薬製造所となった。火薬は軍事のみではなく鉱山や土木でも使われたが、同17年(1884)に政府は民間での火薬類生産を禁止しており、民間での製造許可が出る大正6年(1917)まで、政府が独占的に火薬を生産することになる。板橋の火薬は軍用と民用があり、民用は猟用黒色火薬として販売された。明治26年(1893)からは綿火薬を主とする無煙火薬の製造が本格化し、また、爆発事故などがあり火薬の安定度の研究が必要となったことから同36年(1903)には板橋火薬製造所内に陸軍火薬研究所が設置された。これは日本初の近代的な理工学系研究所であった。同37年(1904)の日露戦争の勃発で無煙火薬の増産がされ、翌年からは工場の大拡張が行われた。その後大正4年(1915)に敷地の拡張がさらに行われた。大正12年(1923)には陸軍火工廠の所属となり、その後昭和15年(1940)に東京第二陸軍造兵廠板橋製造所となって終戦を迎える。戦後は、広い敷地はさまざまに払い下げられ、そのうち石神井川に沿った北側は理化学研究所に、南は野口研究所や公園となった。 野口研究所一帯の開発計画に当たり平成26・27年度に板橋区教育委員会によって建造物調査、文献調査などが行われた。現存する遺構としてはまず、明治10年以来試験射撃の射垜(しゃだ)に使われたと考えられる築山がある。加賀藩邸にあった築山を改変したもので、石神井川南側にあり、規模は東西60m・南北30m、高さ5m、射垜幅は約4m・高さ5mである。その西正面には50m離れて昭和期の露天式発射場跡が位置し、発射場跡の両側には爆発の広がりを防ぐための高さ2.7mの土塁がある。発射場跡の南には、昭和18年(1943)から20年に建築された鉄筋コンクリート造の燃焼実験室が建ち、そこから東に現存長30.5mの弾道管が伸び、掩蔽(えんぺい)式射場となっている。これらの施設の北側には、昭和期に建てられた銃器庫、火薬貯蔵室(加温、常温、地下)が残り、爆薬製造実験室の一部については移築して保存する予定である。また、石神井川北側には明治40年(1907)建築の煉瓦造平屋建物で、昭和期に鉄筋コンクリートで増築された物理試験室や、昭和期に建てられた鉄筋コンクリート平屋、地下一階建ての爆薬理学試験室のほか、電気軌道レールも残る。なお、物理試験室については戦後に理化学研究所の研究室として利用され、湯川秀樹、朝永振一郎らがここで研究した。このように火薬を作る上で必要な、研究、実験、製造、貯蔵などの一連の工程を示す遺構がそろっており、明治から昭和にかけての陸軍による火薬の製造の在り方を理解することができる。 以上のように陸軍板橋火薬製造所跡は、明治政府によって初めて新設された火薬製造所跡であり、かつ、初めて設置された近代的な理工学系の研究所跡である。また、明治から大正にかけての軍による独占的な火薬生産の状況とその後も含めた生産の拡張、西洋計測技術の導入の実態を示すものとして、広範囲に遺存状況が良好なのは首都においては他になく、全国的に見ても稀である。よって史跡に指定し保護を図ろうとするものである。