国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
利神城跡
ふりがな
:
りかんじょうあと
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
戦国~近世
年代
:
西暦
:
面積
:
864134.35 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
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指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
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兵庫県
所在地(市区町村)
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兵庫県佐用郡佐用町
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
慶長5年(1600),姫路城主となった池田(いけだ)輝(てる)政(まさ)が播磨(はりま)領内に設けた六支城の一つで,山頂の城を改修,西山麓には居館が整備された。現在,山頂部には江戸時代初期の石垣遺構が,山麓部には御殿跡が残る。近世初頭の播磨の政治・軍事を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
慶長5年(1600),姫路城主となった池田(いけだ)輝(てる)政(まさ)が播磨(はりま)領内に設けた六支城の一つで,山頂の城を改修,西山麓には居館が整備された。現在,山頂部には江戸時代初期の石垣遺構が,山麓部には御殿跡が残る。近世初頭の播磨の政治・軍事を知る上で重要である。
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詳細解説
利神城跡は、戦国時代から近世初頭にかけて、播磨国北西部の軍事・政治的拠点として営まれた城跡である。雲突(くもつき)城跡(じょうあと)ともいう。城跡は兵庫県西部の山間地を流れる佐用川及び同川支流庵川の左岸、標高373mの利神山山頂部及び西山麓に位置する。 利神城は14世紀代の赤松(あかまつ)(別所(べっしょ))敦(あつ)範(のり)築城の伝承をもつが、記録に明確となるのは16世紀半ば以降であり、城を巡る合戦が知られる。天正5年(1577)、織田信長麾下の羽柴秀吉による播磨平定に際し、毛利・宇喜多方の佐用郡三城の一つに「別所中務と申者之城」(羽柴秀吉書状)とみえ、国人層の別所氏が城主であったと考えられている。豊臣期には備前の宇喜多秀家の支城になったと思われる。 慶長5年(1600)、池田(いけだ)輝(てる)政(まさ)が関ヶ原の戦の勲功によって播磨国52万石の国主となると、国内6支城整備の一環として、甥の池田由之(よしゆき)(池田恒(つね)興(おき)嫡男元助の長男)に佐用郡2万2千石を与え、播磨・美作国境の要となる利神城の大規模改修を行わせた。利神山南麓にあった居館(別所構(べっしょのがまえ))も同山西麓と佐用川との間に移り、城主や家臣の屋敷が配された。慶長14年(1609)、由之に替わって片桐池田氏(輝政弟の系統)が入ったが、その後、岡山藩主池田忠(ただ)継(つぐ)(輝政次男)の所領に組み込まれ、元和元年(1615)の忠継死去後は、池田輝(てる)興(おき)(忠継舎弟)が佐用郡2万5千石を相続して平福藩が成立、当地を拠点とした。輝興は寛永8年(1631)播州赤穂に移封、佐用郡は山崎藩主池田輝(てる)澄(ずみ)(輝興兄)へ加増されたことに伴い、廃城となった。寛永12年(1635)には山麓の居館・家臣団屋敷が耕作地と化したことが知られる。寛永17年(1640)に平福は旗本松平(松井)氏の所領(一時期天領)となり、姫路と鳥取を結んだ因幡街道(智頭(ちず)往来(おうらい))の宿場町として幕末に至った。宿場町平福の歴史的町並みが現在も残る。 昭和58年度、観光資源保護財団(現・公益財団法人日本ナショナルトラスト)が城跡と町並みの総合調査を行い、平成5年には城郭談話会による調査研究も発表された。昭和58年町史跡に指定され、平成15年度には佐用町教育委員会が山城部分の平面図を作成し、平成27、28年度には城跡の航空レーザー計測、文献・城郭調査を行った。また、平成22~24年度には兵庫県教育委員会が河川改修に伴う西山麓部の発掘調査を実施した。これらの成果により城跡等の概要が明らかとなった。 山城跡は、利神山の山頂を中心に、南北350m、東西200mの範囲に曲(くる)輪(わ)が展開する。曲輪は、山頂の天守丸を中心に東南の馬場へ延びる尾根、南西の三の丸へ延びる尾根、北側の鴉(からす)丸(まる)の尾根に位置し、天守丸北西斜面を下って派生する大坂丸への尾根等にも配置される。天守丸・本丸・二の丸・三の丸には、急峻で狭い地形的な制約のなかで最大高8~10mの高石垣が構築される。周辺の尾根先には西・南面のみ石垣構造をもつ馬場、石垣をもたない大坂丸・鴉丸等の曲輪がある。馬場や鴉丸には先端を堀切(ほりきり)で遮断する等の土城の要素が残り、戦国時代から豊臣期の遺構を残す。本丸・二の丸・三の丸の石垣は慶長期、天守丸・馬場の石垣は文禄・慶長期に遡ると考えられ、各曲輪には鯱(しゃち)瓦や鬼瓦を含む多量の瓦類の散布が確認される。 一方、西山麓の居館跡は、南北370m、東西110mの規模である。南北を石塁で仕切り、南側は前面に堀を有し、西側は佐用川と支流の庵川を自然の堀として石垣で護岸していた。敷地北側の山裾側は城主屋敷と言われる一段高い場所で、その南には枡形(ますがた)虎口(こぐち)があり、前面石垣が残る。後世の改変により不明な点もあるが、この枡形虎口が城主屋敷及び山城への大手門として機能したと考えられ、枡形虎口の奥から山上の三の丸に向け登城道が延び現在も良く残る。発掘調査の結果、居館跡の造営は17世紀初頭と考えられている。地元平福には「平福明屋敷検地帳」(寛永12年〈1635〉)「利(り)神(かん)城(じょう)古図(こず)」(18世紀代)(ともに『田(た)住家(ずみけ)文書(もんじょ)』)等、城跡に関わる貴重な江戸時代の史資料も残る。 このように、利神城跡は、戦国時代には別所氏の居城として、慶長5年以降は播磨国を領した大名池田家の有力支城として、最後には平福藩の拠点として営まれた城跡である。近世初頭の高石垣を有する山城として、また山城と山麓の居館が一体として残る事例として貴重であり、中世城館から近世城郭への変遷、近世大名による支城体制を理解する上で重要である。よって、史跡に指定し、その保護を図るものである。