国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
八幡浜街道
笠置峠越
夜昼峠越
ふりがな
:
やわたはまかいどう
かさぎとうげごえ
よるひるとうげごえ
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
室町~大正
年代
:
西暦
:
面積
:
4423.81 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
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追加年月日
:
2023.03.20(令和5.03.20)
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
愛媛県
所在地(市区町村)
:
愛媛県八幡浜市、西予市、大洲市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
西予市宇(う)和(わ)町(ちょう)卯之(うの)町(まち)と八幡浜を繋ぐ八幡浜街道の一部で,宇和島藩の参勤交代の道として,また九州方面からの巡礼者と四国遍路を結ぶ道として利用された笠置峠を越える道。南麓の寺院に残る大般若経奥書から室町時代には笠置峠を介した南北の交流があったことが知られる。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
西予市宇(う)和(わ)町(ちょう)卯之(うの)町(まち)と八幡浜を繋ぐ八幡浜街道の一部で,宇和島藩の参勤交代の道として,また九州方面からの巡礼者と四国遍路を結ぶ道として利用された笠置峠を越える道。南麓の寺院に残る大般若経奥書から室町時代には笠置峠を介した南北の交流があったことが知られる。
詳細解説▶
詳細解説
八幡浜街道笠置峠越は、宇和島から西予市宇和町(うわちょう)卯之(うの)町(まち)を通り東多田から大洲に向かう宇和島街道と卯之町において分岐する道で、卯之町と八幡浜を繋ぐ八幡浜街道の一部をなす。西予市宇和町岩木(いわき)と八幡浜市(やわたはまし)釜倉(かまのくら)の間にある標高397mの笠置峠を越える道である。 本街道は、平成13年度の愛媛県生涯学習センターによる遍路道の調査のなかで取り上げられ、さらに平成23年度に愛媛県教育委員会による歴史の道の調査が実施された。また、平成27年度には西予市と八幡浜市により測量調査が実施された。 南麓の安養寺(西予市宇和町岩木)が所蔵する大般若経のうち、文明10年(1478)の写本には、矢野(やの)保(のほ)舌間(したま)浦(うら)(八幡浜市舌間)で書写したとの奥書があり、室町時代には峠を越えての交流があったことが窺える。また、峠近くには古墳時代前期の前方後円墳である笠置峠古墳が所在し、八幡浜の緑色片岩を葺石に使用するなど、峠道の利用はさらに古く遡ることが推定される。 江戸時代には、寛文元年(1661)から同3年(1663)頃に作成された「御領中(ごりょうちゅう)色分(いろわけ)絵図(えず)」((公財)伊達文化保存会所蔵)にこの道筋がみえ、江戸時代前期には主要な街道であったことが判明する。宇和島藩主伊達家の記録である「御(おん)歴代(れきだい)事記(じき)」、「記録(きろく)書抜(かきぬき)」や小原(おばら)村(西予市宇和町小原)の庄屋清家(せいけ)家(け)の日記(「清家家日記」)からは、3代藩主宗(むね)贇(よし)が元禄14年(1701)にこの道を使って下向していることや、以後の歴代藩主が参勤交代に利用していることがわかる。参勤交代の経路には、宇和島から海路で塩成(しおなし)(西宇和郡伊方町)まで向かい、そこから陸路で三(み)机(つくえ)(同)に出て、再び海路で大坂に向かう経路(途中、室津(兵庫県たつの市)で陸路をとる経路と分かれる)、宇和島から佐田岬を廻(まわ)って室津まで海路をとる経路、宇和島から陸路で波止(はし)浜(はま)(今治市)まで向かう経路(大洲、松山を経由する。宇和島街道を利用する。)同じく陸路で三机まで向かう経路があり、これらは室津まで海路で向かい、以後陸路で大坂に向かうものである。八幡浜街道笠置峠越は三机までの陸路の一部に相当する。たとえば、天明5年(1785)の5代藩主村候(むらとき)の下向記事には、5月17日に三机に着き、三机より陸路をとって帰城したとある。20日に卯之町(西予市宇和町卯之町)に止宿する予定であったが、雨が強かったために若山(八幡浜市若山)に立ち寄ってすぐ出発し、小原で昼休みをとったとあり、その際、宮内村(八幡浜市保内町宮内)の長寿の者と会い、扇子を交換したこともみえる(「清家家日記」「記録書抜」)。また、「御歴代事記」には、安政元年(1854)、8代藩主宗(むね)城(なり)が八幡浜まで馬で遠出したことが記されている。それによれば、笠置坂で馬を下り、徒歩で釜之倉(八幡浜市釜倉)に向かい、そこから再び乗馬して八幡浜の庄屋宅を訪れている。そして、昼食後、行きと同じ経路で宇和島に帰着している。これらはまさしく、笠置峠を越える道筋を利用するものである。 丘陵の尾根部が市境となっており、峠にある地蔵尊は台座の銘文から、寛政6年(1794)に石経を埋納した際に造立されたものであることがわかる。その台座には、「あげいし」(第43番札所明(めい)石(せき)寺(じ)、西予市宇和町所在)、「いづし」(出石寺、大洲市所在)、「やはたはま」(八幡浜)への道程が追刻されている。この刻銘から、この道筋が巡礼者の道としても利用されていたことが明らかである。 明石寺から第44番札所大寶寺(上浮穴郡久万高原町所在)へは、卯之町から北上する宇和島街道をたどり、東多田村番所で往来手形の改めを受けて向かうのが通常のルートであった。一方で、宇和島藩は、九州からの巡礼者に対して統制を加え、三机港で上陸させ、伊方(いかた)浦、宮内(みやうち)村、喜(き)木(き)村、日(ひ)土(づち)村、平地(ひらじ)村経由で大洲城下へ向かい、大洲から遍路道に入らせていたが、明和6年(1769)には、三机港から伊方浦、喜木村、須川(すがわ)村、八幡浜浦、五反田村、若山村、釜倉村から笠置峠を越えて卯之町に向かう道筋を認めるようになる。さらに、往来者の増加を求める八幡浜浦の船持らの願い出により、寛政12年(1800)には遍路や商人などが直接八幡浜港へ上陸し、あるいはそこを発つことを認めるようになった。そうした宇和島藩の遍路統制の変化を反映するように、西予市側の道端には遍路墓が残されている。遍路墓は道の北側に並び、文政6年(1823)から明治38年にかけての7基で、松山のほか、加賀、豊後、肥後、筑後、福岡県、新潟県佐渡の地名が確認できる。 道筋を南からたどると、南麓の岩木からの道は林道の敷設により改変されている箇所があるが、道幅が1~2m程の地道が遺存する箇所があり、途中前述の遍路墓が並ぶ箇所も存在する。峠を下ると途中に石室状に石を組んだ祠に大日如来と馬頭観音の2体の石像が祀られている。「牛(うし)神様(がみさま)」と呼ばれ、道中の安全を願ったものだとされる。釜倉の集落内に入り、車道と交差する三叉路には山田薬師(宇和町西山田)への道標(大正15年建立)が立っている。これは八幡浜から宇和町に向けての道標である。西予市側約0.5km、八幡浜市側約1.1kmの区間に、遺存状況の良好な道筋が残り、地元の人々が草刈りや清掃を実施し、ウォーキング等のイベントにも利活用されている。 このように八幡浜街道笠置峠越は江戸時代には宇和島藩主の参勤交代の道として利用されるとともに、九州方面からの巡礼者と四国遍路を結ぶ道として重要な役割を果たした。よって遺存状況の良好な箇所を史跡に指定し、保護を図るものである。