国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
福原長者原官衙遺跡
ふりがな
:
ふくばるちょうじゃばるかんがいせき
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古代
年代
:
西暦
:
面積
:
24293.47 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
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追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
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福岡県
所在地(市区町村)
:
福岡県行橋市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
7世紀末から8世紀前半の古代の官衙遺跡。大規模な区画施設の中に大規模掘立柱建物が並び建つ。通常の地方官衙を上回る規模を有し,藤原宮の平面プランをモデルとした可能性のある格式高い行政施設と考えられ,その出現時期からみて古代律令国家成立期の地方統治の実態を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
7世紀末から8世紀前半の古代の官衙遺跡。大規模な区画施設の中に大規模掘立柱建物が並び建つ。通常の地方官衙を上回る規模を有し,藤原宮の平面プランをモデルとした可能性のある格式高い行政施設と考えられ,その出現時期からみて古代律令国家成立期の地方統治の実態を知る上で重要である。
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詳細解説
福原長者原官衙遺跡は、福岡県と大分県との境にある英彦山(ひこさん)山系から派生する丘陵地の先端付近の標高15m前後の段丘面に立地する。本遺跡の約4km北西には草野津(かやののつ)推定地、約1.5km南東には、みやこ町の県史跡豊前国府跡が位置する。本遺跡の南には、県史跡豊前国府跡、馬ヶ岳(うまがだけ)、御所ヶ岳(ごしょがたけ)北麓を結び東西方向に伸びる古代官道が通る。 本遺跡では、平成8年度から平成9年度に福岡県教育委員会が県道拡幅に伴う発掘調査を行い、大規模な溝(のちに官衙区画溝の北西部分と判明)を確認していた。その後、平成22年度から平成24年度にかけて九州歴史資料館が実施した東九州自動車道建設に伴う発掘調査によって、区画溝のほか掘立柱の回廊状遺構(かいろうじょういこう)、南と東の門跡(もんあと)、脇殿(わきでん)と考えられる南北棟の大型掘立柱建物群を確認した。また平成24年度から平成27年度まで、行橋市教育委員会が高速道路部分以外の地区で遺跡の範囲と内容を確認する発掘調査を行い、遺跡北側で区画溝や掘立柱塀及び大型の掘立柱建物群を確認したことで、本遺跡が大規模な官衙遺跡であると考えられるようになった。 本遺跡の遺構は主として官衙政庁部分に相当するとみられ、三期に整理されている。Ⅰ期は7世紀末から8世紀初頭、Ⅱ期は8世紀第1四半期、Ⅲ期は8世紀第2四半期である。 I期は、幅約3mの素掘りの区画溝が東西127.8m、南北135m以上の長方形にめぐり、その内側には掘立柱建物がある。 Ⅱ期になると、Ⅰ期の区画溝が埋め戻され、幅約5mに及ぶ素掘りの区画溝が約150m四方にめぐり、その内側に幅11.8mの空閑地を隔てて一辺117.8mの掘立柱回廊状遺構がめぐる。回廊状遺構には格式高い八脚門(はっきゃくもん)の南門、四脚門(しきゃくもん)と推定される東門が開く。回廊状遺構による区画の内部には、中央北側で正殿と推定される桁行7間、梁行3間の東西棟掘立柱建物が、その南側には東西の脇殿とみられる桁行6間、梁行2間の南北棟掘立柱建物が並ぶ。 Ⅲ期になると、Ⅱ期の正殿に相当する建物や南門、東門、回廊状遺構が建て替えられたと推定される。施設を全体的に簡素化し、回廊状遺構を撤去するとともに、木(もく)柵(さく)あるいは板塀(いたべい)に造り変えられたとみられる。この時期に官衙の機能も変容したものと推定される。 遺物には、最も初期のものとしてⅡ期の西脇殿より出土した7世紀第4四半期に比定される須恵器杯蓋(つきぶた)(転用硯(てんようけん))があるが、出土土器の多くは8世紀前半のものである。本遺跡の官衙的性格を示す遺物として、転用硯を含む複数の硯(すずり)が出土している点をあげることができる。瓦も出土しているが少量であり、屋根に葺かれていたとしても部分的であったと推定される。このほか、鋳造(ちゅうぞう)・鍛(か)冶(じ)関連遺物として鞴羽口(ふいごはぐち)、送風管(そうふうかん)、取瓶(とりべ)、銅滓(どうさい)、精錬滓(せいれんさい)、鍛錬滓(たんれんさい)、鍛冶滓(かじさい)、鉄床石(かなとこいし)などが出土していることから、造営にあたって敷地内で建築金物を製作していた可能性がある。 以上のように、福原長者原官衙遺跡は、その規模において一般的な地方官衙を上回っている。西海道(さいかいどう)には7世紀末に大宰府政庁や筑後国府跡の古宮(ふるごう)国府(第1期国府)などの巨大な官衙政庁跡が存在するが、本遺跡のⅠ・Ⅱ期遺構の規模もこうした官衙施設に並ぶ。また、Ⅱ期遺構にみられる、四周の区画溝と回廊状遺構との間に空閑地をめぐらせた構造は、藤原宮の平面プランに類似することから、これをモデルとして造営された行政施設である可能性が考えられる。Ⅱ期政庁の南門が大型の八脚門であることと併せて、この官衙の格式の高さを示している。本遺跡の成立時期が7世紀末まで遡る点は国府相当の施設としては最古級であり、しかも、その変遷を8世紀第2四半期の終焉まで間断なく辿れることは重要である。 これまで古代豊前国の国府跡には『和名類聚抄』の記述等に基づくいくつかの推定地があった。その後の発掘調査の成果から、みやこ町の県史跡豊前国府跡に比定されてきたが、この遺跡では8世紀中葉を遡る様相が不明であった。県史跡豊前国府跡の北西1.5kmに位置する福原長者原官衙遺跡は、他の令制国(りょうせいこく)の国府整備に先行して7世紀末から8世紀中葉まで営まれた大規模な行政施設と考えられることから、成立当初から後の国府と同様の機能を有していたかは今後の課題としても、Ⅰ・Ⅱ期には豊前国の統治において中心的役割を担っていた可能性が指摘される。 このように、福原長者原官衙遺跡は古代律令国家成立期の地方統治の実態を知る上で重要な遺跡であり、盛土保存された高速道路部分を含めて遺構の残存状況も良好である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。