国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
城久遺跡
ふりがな
:
ぐすくいせき
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
平安~室町
年代
:
西暦
:
面積
:
49257.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
鹿児島県
所在地(市区町村)
:
鹿児島県大島郡喜界町
保管施設の名称
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所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
古代日本国家との関わりの中で交易拠点として成立し,11世紀後半以降に形成される琉球,奄美地域の交易圏において中心的な役割を果たしたと考えられる遺跡で,考古学・文献史学の双方から南島社会の変遷を知ることができる稀有な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
古代日本国家との関わりの中で交易拠点として成立し,11世紀後半以降に形成される琉球,奄美地域の交易圏において中心的な役割を果たしたと考えられる遺跡で,考古学・文献史学の双方から南島社会の変遷を知ることができる稀有な遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
城久遺跡は、奄美大島の東方に位置する喜界(きかい)島(じま)の標高100m前後の海岸段丘に立地する9世紀から15世紀に至る集落遺跡である。平成14年度から21年度にかけて喜界町教育委員会が実施した県営畑地帯総合整備事業に伴う発掘調査により、450棟を超える掘立柱建物や火葬墓、土葬墓、製鉄・鍛冶を行ったと考えられる炉跡、石敷遺構などこれまで奄美・沖縄地域で確認されていなかった重要な遺構が検出された。また、土師器・須恵器・白磁・越州窯系青磁など古代の遺物や、白磁玉縁碗・滑石製石鍋・カムィヤキ壺などの中世前半の遺物がまとまって出土し、その量、内容ともに同時期の奄美群島の遺跡の中では突出していることが明らかになった。 こうした重要な発掘調査成果が得られたことを受け、喜界町教育委員会は遺構が確認された約130,000㎡のうち、約60,000㎡を盛土保存することを決定するとともに、遺跡の範囲と内容を確認するための発掘調査を平成26年度まで継続して実施した。 遺跡は3時期に大別される。9世紀から11世紀前半に比定される第1期は、桁行3間、梁行2間の小規模な掘立柱建物を数棟検出し、その周辺から越州窯系青磁など初期貿易陶磁器がまとまって出土している。その出土量や内容は、奄美・沖縄地域では突出している。 11世紀後半から12世紀後半に比定される第2期になると、遺跡の範囲が拡大し集落は最盛期を迎える。遺跡の最も高所に当たる地点では、倉庫を伴う大型の四面廂付掘立柱建物を検出し、これ以外にも倉庫を伴う1間四方の小規模な掘立柱建物が集落の各所で認められるようになる。また、遺跡の北部では複数の掘立柱建物とともに製鉄・鍛冶を行ったと考えられる炉跡を複数検出している。この時期の製鉄炉は奄美・沖縄地域では見つかっていないことから、城久遺跡で生産された鉄製品が奄美・沖縄地域に広く流通していた可能性が考えられる。 出土遺物には白磁玉縁碗や初期高麗青磁、朝鮮系無釉陶器、滑石製石鍋、12世紀に徳之島で生産が開始されたカムィヤキなどがある。貿易陶磁器がまとまって出土するという傾向は第1期に引き続き認められるが、この時期になると宮古・八重山地域の遺跡でも白磁、滑石製石鍋、カムィヤキというセットが認められるようになる。こうした広い範囲で同様の遺物の分布が認められるということは、この時期に奄美・沖縄地域において一大交易圏が成立したことを示すと考えられる。そして、これらの土器類がまとまって出土するとともに、鉄製品の生産を行っていた城久遺跡はこの交易圏の中心的な役割を担っていたと考えられる。 13世紀から15世紀に比定される第3期になると集落の規模は縮小し、遺物の出土量も減少する。 こうした遺跡の展開は文献史料の記述ともよく合致している。『日本紀略』長徳4年(998)9月15日条に「大宰言上下知貴駕嶋、捕進南蠻由」とあり、翌年の長保元年8月19日条には「大宰府言上追討南蠻賊由」とある。これらの記事から10世紀後半の喜界島には、大宰府の命を受けて、南島の治安を維持する役割を担ったことが知られる。また『吾妻鏡』には文治4年(1188)2月21日に源頼朝が、天野(あまの)藤内(とうない)遠景(とおかげ)に貴海嶋追討を命じているが、この時期は城久遺跡の集落の全盛期である第2期の終焉の時期に相当しており、遺跡の衰退をこうした政治情勢に求める見方がある。 このように城久遺跡は、古代日本国家との関わりの中で交易拠点として成立したと考えられ、11世紀後半以降、12世紀後半までの間は奄美・沖縄地域の交易圏の中心的な役割を担ったと考えられる。こうした一連の動きは、文献史料ともよく合致しており、考古学、文献史学の双方から南島社会の変遷を知る上でも重要であり、かつ希有な遺跡である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。