国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
湯畑
ふりがな
:
ゆばたけ
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
明治~現代
年代
:
西暦
:
面積
:
1112.44 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
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指定年月日
:
2017.10.13(平成29.10.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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九.火山、温泉
所在都道府県
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群馬県
所在地(市区町村)
:
群馬県吾妻郡草津町
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
草津温泉の中心に位置する源泉地。湯(ゆ)樋(どい)を通じて温泉水を冷ますとともに,湯の花も採取され,端部において岩盤を流れ落ちる湯滝の風致は独特の風情を成しており,草津に固有の温泉文化を表象する風致景観として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
草津温泉の中心に位置する源泉地。湯(ゆ)樋(どい)を通じて温泉水を冷ますとともに,湯の花も採取され,端部において岩盤を流れ落ちる湯滝の風致は独特の風情を成しており,草津に固有の温泉文化を表象する風致景観として重要である。
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詳細解説
湯畑は群馬県吾妻郡草津町の中心部に位置する源泉地で、毎分4,040ℓの自然湧出量を誇る。これは、草津(くさつ)白根山(しらねさん)(標高2,160m)の東側斜面に降った雨水が地下に浸透し高温のガスや熱水と接触して温泉水となり、湧き出すものと考えられている。源泉は温度52.7℃、pH2.1の強酸性で、旅館や共同湯等町内の80か所以上に引かれている。 室町時代中頃までの草津の様子はわかっておらず、文献で草津を確認できるのは15世紀の後半になってからである。文明18年(1486)に浄土真宗の僧侶である堯(ぎょう)恵(え)(1430~1498)が14日間草津に滞在したことが紀行文『北国(ほっこく)紀(き)行(こう)』に記されている。また、臨済宗の僧侶で後に還俗した万(ばん)里(り)集(しゅう)九(く)(1428~歿年不明)が、延徳3年(1491)に『梅(ばい)花(か)無(む)尽(じん)蔵(ぞう)』において「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島 三処也」と記述している。「下野」は「上野」の誤りであるが、この頃には草津が有馬や湯島(下呂)と同様によく知られた存在であったことが窺える。 その後、戦国時代以降は湯治場としての地位が確立され、文化14年(1817)の『諸(しょ)國(こく)温(おん)泉(せん)効(こう)能(のう)鑑(かがみ)』では東之方大関に位置付けられている。文化9年(1812)の『上(じょう)州(しゅう)草(くさ)津(つ)温泉(おんせん)圖(ず)』や安政6年(1859)の『上(じょう)州(しゅう)草(くさ)津(つ)温泉(おんせん)之(の)圖(ず)』等の絵図を見ると、中央部分の上側に薬師堂、下側に湯畑が描かれており、草津がこれらを中心とする湯治場であることがよくわかる。近代になり、都市近郊の温泉地は湯治場から保養地や観光地へと変化していったが、草津は明治以降も湯治場として栄え、昭和30年代まで多くの人々が療養を目的として滞在した。その後昭和40年代以降は日帰り客が増大し、宿泊客も保養や観光目的の人々が多くを占めるようになった。しかし、現在でも年間数千人が長期間の湯治を行っており、そのような人々のための旅館や民宿もある。 「湯畑」の名称については、明治17年(1884)の『上(じょう)毛(もう)草(くさ)津(つ)鑛(こう)泉(せん)獨(ひとり)案内(あんない)』の「草(くさ)津(つ)鑛(こう)泉(せん)場(じょう)之(の)略(りゃく)圖(ず)」に「湯畠」とあり、また明治43年(1910)の『草(くさ)津(つ)郷(きょう)土(ど)誌(し)』の付図「草(くさ)津(つ)温(おん)泉(せん)市街(しがい)地(ち)圖(ず)」に「湯畑」と書かれている。それ以前は、「瀧ノ元」、「湯の川」、「湯壺」、「湯の池」、「湯の花の池」等の名前が確認できる。 前述したように源泉の湧出量は毎分4,040ℓと豊富である。江戸時代には享保11年(1726)と寛保3年(1743)の二度にわたり、江戸幕府八代将軍徳川吉宗に湯が献上されており、湯を汲み上げた場所に「御(お)汲(くみ)上(あ)げの湯(ゆ)枠(わく)」が残る。湧き出た湯は、湯(ゆ)樋(どい)を通った後に滝となって、また湯樋を通らない湯は透湯層露出部分を通り、やはり滝となって、それぞれ滝壺へ流れ落ちる。湯樋は明治20年代に設置され、現在も不定期に付け替えられている。現在の湯樋は長さ約40mのものが7本設置されており、樹齢150年以上の赤松を材として使用している。湯樋は、湯の花の採取、温泉の冷却、硫化水素の放散等を目的に設置されたと考えられている。また、滝壺にはかつて共同湯の一つである「瀧の湯」があったが昭和47年に閉鎖され取り壊された。現在湯畑の周囲には石の柵が設置されているが、湯畑の周りに柵が作られた時期は不明である。享保7年(1722)の『吾(あが)妻(つま)郡(ぐん)略(りゃっ)記(き)』に「湯沸出づる所長さ五六十間、横二十間程、周りに柵あり」という記述があることから、江戸時代の中頃には柵が設けられていたようである。昭和に入るまでは木製だったが、昭和9年(1934)に石の柵が作られ、昭和50年(1975)に岡本太郎が代表を務めた現代芸術研究所の設計により、現在の石柵になった。昭和9年設置の柵は一部が移設され現在まで残る。 以上のように、現在も町の中心部に位置し、源泉、露出した透湯層、湯樋を流れる温泉水、湯滝、滝壺、石柵から形成される景観は他に例のない独特のものであり、その観賞上の価値は高く、名勝に指定して保護を図るものである。