国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
猿留山道
ふりがな
:
さるるさんどう
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸~昭和
年代
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西暦
:
面積
:
5709.77 m
2
その他参考となるべき事項
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告示番号
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特別区分
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指定年月日
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2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
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北海道
所在地(市区町村)
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北海道幌泉郡えりも町
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
18世紀後半,ロシアが南下政策をとるなか,江戸幕府は北方警備を強化するため,寛政11年(1799)に東(ひがし)蝦(え)夷(ぞ)地(ち)を直轄化し,幕府として初めて,悪天候時に通行が困難となる海沿いの道に代わる,様似山道と猿留山道を開削した。このとき,場(ば)所(しょ)請(うけ)負(おい)人(にん)の交易所である運(うん)上(じょう)屋(や)を会所(かいしょ)と改め,人(じん)馬(ば)継(つぎ)立(たて)の制度を整え,途中には小(しょう)休所(きゅうしょ)が設けられた。
猿留山道は伊能忠敬や松浦武四郎の記録のほか,蝦夷三官寺の一つである厚岸の国泰寺の僧侶の日記などにも記述がみえる。箱館奉行村垣(むらがき)範(のり)正(まさ)の蝦夷地巡見の記録も絵図として残され,ハート形の豊(とよ)似(に)湖(こ)が描かれている。また,沼(ぬま)見(み)峠(とうげ)には江戸時代に建立された石造物が現存している。明治18年(1885)に海岸寄りに新しい猿留山道がつくられ,江戸時代の猿留山道の一部は使われなくなった。また,幌泉(ほろいずみ)(えりも町庶(しょ)野(や))から広尾までの海岸道路が昭和9年に完成し,猿留山道の利用は減少していった。平成9年から所在調査や史資料調査が行われ,平成15年からはボランティアによる刈り払い作業などが実施されてきた。平成27年からのえりも町教育委員会による調査で,全長29.5kmのうち,6.32kmの区間(道有林内)が良好に遺存することが明らかとなった。道幅は 0.9m程で,豊似岳の山麓を通る道である。
幕府の東蝦夷地経営のあり方や北海道における交通制度のあり方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
18世紀後半,ロシアが南下政策をとるなか,江戸幕府は北方警備を強化するため,寛政11年(1799)に東(ひがし)蝦(え)夷(ぞ)地(ち)を直轄化し,幕府として初めて,悪天候時に通行が困難となる海沿いの道に代わる,様似山道と猿留山道を開削した。このとき,場(ば)所(しょ)請(うけ)負(おい)人(にん)の交易所である運(うん)上(じょう)屋(や)を会所(かいしょ)と改め,人(じん)馬(ば)継(つぎ)立(たて)の制度を整え,途中には小(しょう)休所(きゅうしょ)が設けられた。 猿留山道は伊能忠敬や松浦武四郎の記録のほか,蝦夷三官寺の一つである厚岸の国泰寺の僧侶の日記などにも記述がみえる。箱館奉行村垣(むらがき)範(のり)正(まさ)の蝦夷地巡見の記録も絵図として残され,ハート形の豊(とよ)似(に)湖(こ)が描かれている。また,沼(ぬま)見(み)峠(とうげ)には江戸時代に建立された石造物が現存している。明治18年(1885)に海岸寄りに新しい猿留山道がつくられ,江戸時代の猿留山道の一部は使われなくなった。また,幌泉(ほろいずみ)(えりも町庶(しょ)野(や))から広尾までの海岸道路が昭和9年に完成し,猿留山道の利用は減少していった。平成9年から所在調査や史資料調査が行われ,平成15年からはボランティアによる刈り払い作業などが実施されてきた。平成27年からのえりも町教育委員会による調査で,全長29.5kmのうち,6.32kmの区間(道有林内)が良好に遺存することが明らかとなった。道幅は 0.9m程で,豊似岳の山麓を通る道である。 幕府の東蝦夷地経営のあり方や北海道における交通制度のあり方を知る上で重要である。
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詳細解説
猿留山道は様似山道とともに江戸幕府によって開削された蝦夷地初の山道である。猿留山道は海の難所と呼ばれた襟裳岬と断崖絶壁の海岸線を避け、日高山脈南端豊(とよ)似(に)岳(だけ)の山麓に開削された、全長29.5kmに及ぶ山道であるが、その8割はすでに国道や林道によって改変がなされている。指定の対象となる区間は、道有林の針広混交林及び人工林(トドマツ)のなかを幅0.9m程の道幅で確認される場所である。かつての造材施業時の作業道により分断されてはいるが、6.32kmにわたって良好に往時の姿をとどめ、胸高直径1m以上のミズナラ、ハリギリ、シナノキの巨木が山道沿いに立ち、江戸時代の雰囲気を体感することができる。 幕府は天明5年(1785)に蝦夷地に調査隊を派遣し、東西蝦夷地、国後(くなしり)島(とう)・択捉(えとろふ)島(とう)・得撫(うるっぷ)島(とう)を調査、ロシアの千島列島への来航を確認し、北方警備の必要性を強く認識することとなった。寛政元年(1789)に起きたクナシリ・メナシの戦いでは、ロシア人が徒党に加わっているとの風聞もあり、その3年後、寛政4年(1792)、ラクスマンが大黒屋光太夫らの送還と合わせて対日修好通商を求めて根室に来航すると、幕府は寛政10年(1798)に幕吏を派遣し、蝦夷地の巡見を行った。この時、調査に加わっていた近藤重蔵は、断崖絶壁が続き悪天候時には通行が困難となる様似(様似町)―広尾(広尾町)間の海岸線に代わる陸路の整備が北方警備のために重要と考え、同年、私費によりルベシベツからビタタヌンケまでの山道(ルベシベツ山道、広尾町)の開削を行った。そして、翌寛政11年、幕府は北方警備を強化するため東蝦夷地を松前藩より仮上知(じょうち)し、公費によって様似山道と猿留山道を開削した。場所請負人の交易所である運上屋を会所と改め、幕吏が詰め、人馬継立も取り扱った。幌泉(ほろいずみ)(えりも町字本町)には会所1棟、旅宿所2棟ほか米蔵などの建物があった(『竹四郎廻浦日記』)。また、モセウシナイ小休所(しょうきゅうしょ)やアフツ小休所が史資料にみえるが、場所を特定できない。猿留山道は様似山道と同様に南部藩により改修がなされた(『東蝦夷地より国後へ陸地道中絵図』文化6年〈1809〉)。寛政12年には、伊能忠敬が第一次測量調査の際、山道を通っており(『蝦夷地(第一次)測量日記』)、松浦武四郎の『東蝦夷日誌』には沼見峠からの景色が描かれている。また、箱館奉行村垣範(のり)正(まさ)の蝦夷地巡見の記録も絵図(『東蝦夷地絵巻』安政5年〈1858〉)として残されている。そのほか、北方警備を命じられた東北諸藩の藩士や幕府役人の通行などが記録され、蝦夷三官寺の一つである厚岸の国泰寺の僧侶の日記『日鑑記』(重要文化財)に山道利用の記述がみえるなど、幕府の北方警備や東蝦夷地の経営を担う幹線道路としての姿が史資料に残されている。 明治18年(1885)に海岸寄りに新しい猿留山道(明治17年に敷設された電信線の経路)が竣工し、江戸時代の猿留山道の一部区間は使用されなくなった。幌泉(ほろいずみ)(えりも町庶(しょ)野(や))―広尾間の海岸道路(黄金道路)は昭和9年に竣工し、現在国道336号線として日高地方と十勝地方を結ぶ幹線道路となっている。 えりも町では平成9年に町民有志とともに、猿留山道の所在調査を実施し、翌年、その一部を確認した。以来、所在確認、史資料調査を実施してきた。平成15年からは猿留山道復元ボランティア事業を10年間継続し、歩きやすく整備がなされた。平成21年には猿留山道の一部区間と沼見峠の石造物が町の文化財に指定された。さらにえりも町教育委員会は、平成27年から「歴史の道活用整備事業」として測量調査、史資料調査と崩落していた路肩の復旧工事などに取り組んだ。 猿留山道は「トヨニ山道」(目賀田守蔭『北海道歴検図』安政6年頃に作成した図を明治4年に再写)とも呼ばれていたが、明治時代以降は猿留山道の名称が一般的である。今回指定の対象となる区間は、林道によって分断されながらも、旧状をとどめるトドマツ林のなかの道に始まる。谷を下ってガロウ川を渡渉し、シダに覆われた斜面を上って再びトドマツ林を進み、急斜面を上って林道と交差する地点を越えると、沼見峠(標高486.8m)までは等高線に沿ったゆるやかな上りとなる。沼見峠には江戸時代に建立された石造物(妙見神の祠・安政6年〈1859〉、馬頭(ばとう)歓((ママ))世音菩薩・文久元年〈1861〉)が現存している。幌泉場所請負人が建立したもので、幌泉場所の繁栄と旅の安全を祈願したものである。沼見峠からは豊(とよ)似(に)湖(こ)(カムイトウ)がみえる。松浦武四郎は「往古は此峠通行の者、湖の見る間談話をも禁じ有し」との伝聞を記している(『東蝦夷日誌』)。神の沼として崇められていたものと考えられる。沼見峠からは斜面と尾根を下り、ワラビタイの沢近くまで道跡を追うことが可能である。 猿留山道は旧状をよくとどめ、日記、道中記や絵図資料も豊富で、蝦夷地初の江戸幕府開削の道の一つとして江戸幕府の東蝦夷地経営の在り方や北海道における交通制度の在り方を考える上で重要である。よって遺存状況の良好な箇所を史跡に指定し、保護を図るものである。