国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
幡羅官衙遺跡群
幡羅官衙遺跡
西別府祭祀遺跡
ふりがな
:
はらかんがいせきぐん
はらかんがいせき
にしべふさいしいせき
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良~平安
年代
:
西暦
:
面積
:
102110.98 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
埼玉県
所在地(市区町村)
:
埼玉県深谷市・熊谷市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
埼玉県北部の櫛挽(くしびき)台地北縁部に位置する。深谷市にある幡羅官衙遺跡と,熊谷市の西別府祭祀遺跡から成る官衙遺跡群で,古代においてはいずれも武蔵(むさし)国(のくに)幡(は)羅(ら)郡(ぐん)に属する。幡羅官衙遺跡は,平成13年度に郡家(ぐうけ)正倉とみられる遺構が発見されたことを契機に把握され,深谷市教育委員会による35次におよぶ発掘調査により,正倉院をはじめとする多数の建物群や区画施設,鍛冶工房,道路など郡家を構成するとみられる諸施設を検出した。西別府祭祀遺跡は幡羅官衙遺跡に東接し,台地縁辺部とその崖下の湧水に広がる遺跡で,熊谷市教育委員会による発掘調査により7世紀後半から11世紀にかけて,湧水における石製模造品を主とした祭祀が,土器を用いた祭祀へと変化していく過程が判明した。
両遺跡は,位置関係や存続時期などからみて幡羅郡家とこれに付随する祭祀場(さいしば)であると考えられる。郡家を構成する諸施設が良好な状態でまとまって検出され,郡家の全体像が把握できるとともに,付随する祭祀場とともに,その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる稀有な遺跡である。地方官衙の構造や立地を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
埼玉県北部の櫛挽(くしびき)台地北縁部に位置する。深谷市にある幡羅官衙遺跡と,熊谷市の西別府祭祀遺跡から成る官衙遺跡群で,古代においてはいずれも武蔵(むさし)国(のくに)幡(は)羅(ら)郡(ぐん)に属する。幡羅官衙遺跡は,平成13年度に郡家(ぐうけ)正倉とみられる遺構が発見されたことを契機に把握され,深谷市教育委員会による35次におよぶ発掘調査により,正倉院をはじめとする多数の建物群や区画施設,鍛冶工房,道路など郡家を構成するとみられる諸施設を検出した。西別府祭祀遺跡は幡羅官衙遺跡に東接し,台地縁辺部とその崖下の湧水に広がる遺跡で,熊谷市教育委員会による発掘調査により7世紀後半から11世紀にかけて,湧水における石製模造品を主とした祭祀が,土器を用いた祭祀へと変化していく過程が判明した。 両遺跡は,位置関係や存続時期などからみて幡羅郡家とこれに付随する祭祀場(さいしば)であると考えられる。郡家を構成する諸施設が良好な状態でまとまって検出され,郡家の全体像が把握できるとともに,付随する祭祀場とともに,その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる稀有な遺跡である。地方官衙の構造や立地を知る上でも重要である。
詳細解説▶
詳細解説
幡羅官衙遺跡群は埼玉県北部の深谷市にある幡羅(はら)官衙遺跡と、熊谷市の西別府祭祀(にしべっぷさいし)遺跡から成る官衙遺跡群である。現在の行政区分上は二つの市にまたがるが、古代においてはいずれも武蔵国幡羅郡に属する。北方約5kmを東流する利根川と、南方約6kmを東流する荒川に挟まれた櫛挽(くしびき)台地の北縁に立地し、北側の崖線下には妻沼(めぬま)低地が広がる。 幡羅官衙遺跡は、平成13年度に郡家(ぐうけ)(郡衙(ぐんが))正倉とみられる遺構が発見されたことを契機に把握され、深谷市教育委員会が平成22年度まで35次にわたる範囲・内容確認のための発掘調査を実施した。これまでに、郡庁は未確認であるが、正倉院(しょうそういん)をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、道路など郡家を構成するとみられる諸施設を検出した。西別府祭祀遺跡の調査は昭和38年に石製模造品(せきせいもぞうひん)が発見されたことを端緒とし、熊谷市教育委員会が平成4年度から6次にわたる発掘調査を実施してきた。この遺跡では、7世紀後半から11世紀にかけて、湧水における石製模造品を主とした祭祀が、土器を用いた祭祀へと変化していく過程が判明した。出土品は平成23年に「西別府祭祀遺跡出土品」として埼玉県指定文化財となった。 幡羅官衙遺跡は、7世紀後半に成立してから11世紀前半に廃絶するまで間断なく存続する。最初期の7世紀後半には竪穴建物が広く分布するが、南側には掘立柱塀や素掘り溝に区切られ、掘立柱建物が建ち並ぶ区画があり、深谷市熊野遺跡のように、これらが官衙的機能を有していた可能性も指摘される。7世紀末から評の官衙の造営が本格的に始まると、8世紀には官衙域と集落域が明確に分離し、竪穴建物からなる集落域は官衙域周辺に大規模に展開するようになる。 7世紀末以降、遺跡北西部では溝で区画された正倉院が整備され、8世紀後葉から9世紀には北側に新たな正倉院が増設される。南側の正倉院は南北約90m、東西約220m、北側の正倉院は南北約135m、東西約80mの規模を有する。9世紀には南側の正倉のうち一部が礎石立ちに建て替えられ、建物規模も大きくなる時期がある。 遺跡南東側には、7世紀後半から前述した掘立柱塀による区画と掘立柱建物群が設けられるが、7世紀末にはこれらとやや方位を異にした仕切り塀と四面廂付掘立柱建物が追加され、8世紀前葉まで存続する。周囲の土坑からは多量の土器と動物遺存体が出土している。これを饗宴の残滓とみて、これらの建物群を館とみなす意見もある。 遺跡東側にも、8世紀から9世紀前半にかけて掘立柱塀や素掘り溝の区画を伴う掘立柱建物群が複数構築される。具体的な機能が判明する施設として、刀子や釘などの鉄製品を製作する鍛冶工房とみられる建物があることから、「実務官衙域」と呼称して行政実務を担う区域であった可能性が指摘されている。この区域では、建て替えごとに規模が縮小していくが、9世紀後半には全体が再編され、二重溝と土塁による方形区画という全く異なる施設に変化し、11世紀前半に廃絶する。 以上のように、正倉院は7世紀末から10世紀前半まで継続するが、四面廂付掘立柱建物を中心とする区画は主として7世紀末から8世紀前葉、「実務官衙域」は8世紀から9世紀前半までが主な存続期間であった。なお、幡羅官衙遺跡の中央部には北東から南西方向に西別府祭祀遺跡にいたるとみられる道路が延びる。 出土遺物には、帯金具(おびかなぐ)、円面硯(えんめんけん)など官衙を特徴づけるもののほか、墨書土器、畿内産を含む多量の土師器や須恵器、人面線刻土製品などが出土している。 一方、幡羅官衙遺跡に東接する西別府祭祀遺跡は、台地縁辺部並びに崖下の低地を含む範囲に広がる。当該地では、現在は認められないが、かつては豊富な伏流水が湧出していた。西別府祭祀遺跡では、幡羅官衙遺跡の成立期と同じ7世紀後半から主に石製模造品を用いた湧水での祭祀が開始され、7世紀末から8世紀初頭に石製模造品から土器を用いた祭祀へと変化してからは、郡家に付随する祭祀場として機能したと考えられる。10世紀後半には「器佛」の墨書をもつ土師器杯が出土し、仏に祈りを捧げる祭祀も行われた可能性が高い。11世紀前半には祭祀行為は終焉を迎える。また、8世紀前半には西別府祭祀遺跡に近接して西別府廃寺が建立され、西別府祭祀遺跡と共存する。なお、西別府祭祀遺跡の南に位置する西別府遺跡は幡羅官衙遺跡と一連の官衙遺跡で、区画溝を持つ掘立柱建物群、同じく区画溝を伴う竪穴建物群が検出されている。 以上のように、幡羅官衙遺跡と西別府祭祀遺跡は、その内容や存続時期などからみて幡羅郡家とこれに付随する祭祀場であると考えられる。今後保護を要する西別府遺跡と西別府廃寺を含めると、郡家・祭祀場・寺院がそろって把握されている希少かつ北関東では規模の大きい官衙遺跡群である。加えて、官衙的機能が7世紀後半に遡る可能性があることから郡家の成立に関わる知見をもたらすとともに、8世紀以降に整備される「実務官衙域」を含め、郡家の多様な構成要素が判明した点にとりわけ高い価値が認められる。したがって、今回、郡家と祭祀場に相当する部分を幡羅官衙遺跡群として史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。