国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
興道寺廃寺跡
ふりがな
:
こうどうじはいじあと
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良~平安
年代
:
西暦
:
面積
:
12817.56 m
2
その他参考となるべき事項
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告示番号
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特別区分
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指定年月日
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2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
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福井県
所在地(市区町村)
:
福井県三方郡美浜町
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
北陸において,創建から廃絶に至るまで伽藍(がらん)の変遷が明らかとなった数少ない古代寺院であり,平成14年度から実施された継続的な発掘調査で金堂,塔,講堂,中門などの主要伽藍の状況と寺域などが明らかになった。伽藍配置は南面する法起寺(ほっきじ)式であり,金堂と塔の北側には講堂,南側には中門と南門が検出された。また寺域を限る溝などの検出により,その規模は西端付近で南北約118m,東西約80mと推定された。
金堂,塔の造営は7世紀後半から8世紀前半であるが,講堂は8世紀中頃の建立であり,その後,8世紀後半以前に塔の建て替えが行われ,8世紀後半~9世紀後半には金堂の建て替えと中門・南門が建立されるという伽藍造営の過程と変遷が明らかになった。
興道寺廃寺は7世紀後半に若狭(わかさ)国(のくに)三方郡(みかたぐん)の有力氏族により建立されたと考えられる。この時期は全国規模で郡司氏族による寺院造営が活発化したことが知られているが,興道寺廃寺は当該期の北陸において実態が判明した数少ない寺院の事例である。また,創建から廃絶に至るまでの伽藍の変遷が明らかになった希少な事例であり,古代寺院造営の在り方と,郡司氏族による仏教信仰の展開を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
北陸において,創建から廃絶に至るまで伽藍(がらん)の変遷が明らかとなった数少ない古代寺院であり,平成14年度から実施された継続的な発掘調査で金堂,塔,講堂,中門などの主要伽藍の状況と寺域などが明らかになった。伽藍配置は南面する法起寺(ほっきじ)式であり,金堂と塔の北側には講堂,南側には中門と南門が検出された。また寺域を限る溝などの検出により,その規模は西端付近で南北約118m,東西約80mと推定された。 金堂,塔の造営は7世紀後半から8世紀前半であるが,講堂は8世紀中頃の建立であり,その後,8世紀後半以前に塔の建て替えが行われ,8世紀後半~9世紀後半には金堂の建て替えと中門・南門が建立されるという伽藍造営の過程と変遷が明らかになった。 興道寺廃寺は7世紀後半に若狭(わかさ)国(のくに)三方郡(みかたぐん)の有力氏族により建立されたと考えられる。この時期は全国規模で郡司氏族による寺院造営が活発化したことが知られているが,興道寺廃寺は当該期の北陸において実態が判明した数少ない寺院の事例である。また,創建から廃絶に至るまでの伽藍の変遷が明らかになった希少な事例であり,古代寺院造営の在り方と,郡司氏族による仏教信仰の展開を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
興道寺廃寺跡は美浜町中央部の平野に所在し、北に向かって流れる耳(みみ)川(がわ)下流域の左岸に南北に細長く延びる低位河岸段丘東縁の標高約23~25mの微高地に立地する。耳川下流域には河岸段丘や自然堤防上に古墳時代後期から平安時代にかけての遺跡が集中し、その密集度は若狭東部でも突出している。 昭和初期、興道寺廃寺跡の西側で行われた福井県園芸試験場(福井県農事試験場)建設に伴い、凹面に布目が残る瓦片が多く出土したことにより存在が知られ、その後も若狭では数少ない古代の瓦が出土する遺跡としてしばしば学界でも取り上げられた。平成9年頃から興道寺廃寺跡の周辺で開発事業が増加したことを受け、美浜町教育委員会は遺跡の範囲と内容を明らかにするための発掘調査を開始した。 平成14年度から実施された継続的な発掘調査では金堂、塔、講堂、中門などの主要伽藍の状況と寺域や伽藍の変遷が明らかになった。西に金堂、東に塔を置く南面する法起寺式伽藍配置であり、金堂と塔の北側では講堂の基壇の一部とその北方で掘立柱建物群を、南側では中門と南門の基壇を検出した。また、寺域を限る溝などを検出したことから、寺域の規模は西側で南北約118m、東側で南北約112m、東西約80mと考えられている。 興道寺廃寺の創建は、出土瓦から7世紀後半の可能性が指摘されており、10世紀前半に廃絶している。その間の伽藍の造営過程と、堂塔の建て替えなどの伽藍の変遷が発掘調査により明らかになった。伽藍は段階的に整備されているようであり、まず7世紀後半から8世紀前半に金堂、塔が建立される。創建期の金堂は主軸が座標北に対し約6度西偏しており、基壇外装は建て替え後の基壇により失われているため不明であるが、東西約16.8m、南北約13.8mの規模である。塔は創建時の基壇外装は不明であるが一辺約12mの規模である。講堂は8世紀中頃の建立で、基壇の規模は東西約18m、南北約12mである。 講堂の建立から8世紀後半の間に塔の建て替えが行われている。建て替え後の塔基壇は座標北に対し約10度西偏しており、規模も一辺約15.3mに拡大されている。基壇上面では心礎をはじめとする礎石の抜き取り穴を数基検出している。また、講堂北方で検出された掘立柱建物群も、この頃に建てられたものと考えられる。 8世紀後半~9世紀後半には金堂の再建と中門・南門が建立されている。建て替え後の金堂基壇は座標北に対し約2度西偏しており、規模も東西約16.8m、南北約14.1mであり、基壇外装を乱石積としている。また南面と北面とにそれぞれ階段を伴っている。 中門基壇は金堂基壇と同様、乱石積で主軸が座標北に対し約2度西偏していることから金堂の建て替えと同時期に建立されたと考えられる。基壇の規模は東西約7.4m、南北約6.2mである。また、基壇下層から基壇と方位が異なる地業の痕跡が検出されていることから、創建期の金堂・塔に伴う中門が存在した可能性がある。なお、中門基壇西側の整地層に萬年通寳、神功開寳が含まれることから、中門の整備時期は8世紀後半と考えられる。 南門の基壇も乱石積であるが、主軸は座標北に対し約4度西偏している。基壇の規模は東西約7.2m、南北約5mであり、下層には創建期の寺域南限を画する可能性がある溝が検出されていることや、基壇外装が再建金堂や中門と同様であることから、金堂の建て替えと同時かそれ以後に建立された可能性がある。また、これに前後して寺域北限に伴う東西溝や寺域西限に伴う南北溝などが掘削されたと考えられる。 興道寺廃寺は7世紀後半に若狭国三方郡の有力氏族により建立されたと考えられる。この時期は全国規模で寺院造営が活発化したことが知られているが、北陸においては同時期の寺院跡の確認例に乏しく、興道寺廃寺は当該期の北陸において実態が判明した数少ない寺院である。また、創建から廃絶に至るまでの伽藍の変遷が明らかになった希少な事例であり、北陸における7世紀後半の寺院造営の在り方と、仏教信仰の展開を知る上で重要である。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。