国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
二俣城跡及び鳥羽山城跡
ふりがな
:
ふたまたじょうおよびとばやまじょうあと
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
戦国~江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
122480.08 m
2
その他参考となるべき事項
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告示番号
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特別区分
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指定年月日
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2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
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静岡県
所在地(市区町村)
:
静岡県浜松市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
天竜川が山塊を抜けて平地に移行する転換点に位置する中近世の城跡である。浜松市教育委員会は平成21年度より総合調査を実施し,両城跡(しろあと)の文化財的価値の究明を進めてきた。二俣城跡は南北300m,東西250mの規模で,堀切や竪堀がみられ,北の丸,本丸,二の丸,南の丸,西の丸などの郭(くるわ)から成る。築城時期は定かではないが,今川氏,徳川氏,武田氏の攻防の舞台となった。徳川家康が武田氏より二俣城を奪い返すが,天正 18年(1590),家康が関東に移ると,遠江西部は豊臣秀吉配下の堀尾吉晴の領有となった。本丸や西の丸を中心とした石垣や天守台はいずれも堀尾氏によるものと考えられる。鳥羽山城は,『三河物語』に家康が武田氏から二俣城を奪還するために本陣を置いた場所とみえる。南北350m,東西400mに残る,本丸の石垣や大手門などの遺構は,堀尾氏によって整備された最終段階の遺構と考えられる。本丸では発掘調査により枯山水の庭園や礎石建物が検出され,大手の調査では最大幅9mに及ぶ大規模な道が造成されていることが明らかとなった。二俣城跡及び鳥羽山城跡は,戦国期に造られ,堀尾氏によって,前者は軍事的拠点として,後者は居館として,機能を分化しつつ整備された様子をよく示す城跡である。戦国期から近世にかけての城郭の変遷,政治・軍事のあり方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
天竜川が山塊を抜けて平地に移行する転換点に位置する中近世の城跡である。浜松市教育委員会は平成21年度より総合調査を実施し,両城跡(しろあと)の文化財的価値の究明を進めてきた。二俣城跡は南北300m,東西250mの規模で,堀切や竪堀がみられ,北の丸,本丸,二の丸,南の丸,西の丸などの郭(くるわ)から成る。築城時期は定かではないが,今川氏,徳川氏,武田氏の攻防の舞台となった。徳川家康が武田氏より二俣城を奪い返すが,天正 18年(1590),家康が関東に移ると,遠江西部は豊臣秀吉配下の堀尾吉晴の領有となった。本丸や西の丸を中心とした石垣や天守台はいずれも堀尾氏によるものと考えられる。鳥羽山城は,『三河物語』に家康が武田氏から二俣城を奪還するために本陣を置いた場所とみえる。南北350m,東西400mに残る,本丸の石垣や大手門などの遺構は,堀尾氏によって整備された最終段階の遺構と考えられる。本丸では発掘調査により枯山水の庭園や礎石建物が検出され,大手の調査では最大幅9mに及ぶ大規模な道が造成されていることが明らかとなった。二俣城跡及び鳥羽山城跡は,戦国期に造られ,堀尾氏によって,前者は軍事的拠点として,後者は居館として,機能を分化しつつ整備された様子をよく示す城跡である。戦国期から近世にかけての城郭の変遷,政治・軍事のあり方を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
二俣城跡及び鳥羽山城跡は天竜川が山塊を抜けて平地に移行する転換点に位置する浜松市天竜区二俣に築かれた中近世の城跡である。両城跡(しろあと)の間には、寛政3年(1791)に河道が付け替えられるまで、二俣川が流れ、天然の要害を形成していた。二俣は天竜川水運と秋葉街道を通じて信濃・遠江北部と浜松(引(ひく)馬(ま))・遠州灘とを南北に結ぶとともに、東西には三河と遠江東部とを結ぶ交通の要衝で、有力武将が覇を競った場所であった。 浜松市教育委員会は平成21年度より測量調査や発掘調査を実施するとともに、文献や絵図などの史資料調査、歴史地理学的調査、近世以降の城跡の履歴の調査など、総合調査を実施し、両城跡の文化財的価値の究明を進めてきた。すでに、昭和45年に天竜市地方史研究会が二俣城跡の城郭遺構を検討し、鳥羽山城跡と「別城一郭」の関係にあることを指摘していたが、今回の地形測量図の作成と総合調査により、それぞれの構造・年代と両者の関係をより的確に指摘することが可能となった。 二俣城跡は南北300m、東西250mの規模で、堀切や竪堀がみられ、北の丸、本丸、二の丸、南の丸Ⅰ、同Ⅱ、西の丸などの郭(くるわ)から成る。築城時期は定かではないが、永禄3年(1560)に起こった桶狭間の戦いを契機に、今川氏の勢力下にあった松井宗(むね)恒(つね)が整備を進めたと考えられる。桶狭間の戦い以後、弱体化した今川氏の領国は近隣からの攻撃を許すようになり、永禄11年(1568)には徳川家康が遠江に進攻を本格化させ、二俣城も徳川氏の影響下に入った。家康は鵜殿(うどの)氏(うじ)長(なが)らに二俣城の防備を命じるが、その4年後の元亀3年(1572)には武田信玄が遠江に進攻し、二俣城を攻め落とした。二俣城は徳川氏と武田氏の攻防の舞台となったが、二俣城の大規模な堀はこのころ設けられたものと考えられる。武田氏から徳川家康が二俣城を奪い返すと、大久保忠(ただ)世(よ)が城主となり、遠江北部の防備にあたった。天正18年(1590)、家康は関東に移り、遠江西部は豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が領有した。吉晴は浜松城に入り、二俣城には弟の宗光(氏光)が入ったと考えられる。本丸を中心に石垣がみられ、西側中央部に天守台が構築されている。西の丸Ⅰの南側と西側においても良好な形で石垣の遺存を確認しており、南側の石垣は高さが5.6mに及んでいる。これらはいずれも堀尾氏によるものと考えられる。東側の現市街地には城下町の形成も想定される。関ヶ原の戦い以後、堀尾氏は出雲に転封され、二俣の地は松平(桜井)忠頼(ただより)が支配したが、城主は定かではない。17世紀初頭には二俣城の戦略拠点としての役割は失われており、二俣城跡から出土する遺物の年代からも、遅くとも元和元年(1615)の一国一城令までには廃城となっていたと考えられる。 鳥羽山城については『三河物語』に家康が武田氏から二俣城を奪還するために本陣を置いた場所とみえ、城跡は二俣城跡の南の南北350m、東西1000mほどの独立丘陵上に立地する。山頂部分を中心に東群・中央群・西群の3つにそれぞれ城郭遺構が存在する。前2者には石垣を伴わない。中央群北側に横堀が存在するが、周辺が土取りによって大きく改変されており、全体像の把握は困難である。また、東群も小規模な堀切が認められるものの、尾根上で発掘調査を実施したが、遺構・遺物を確認することができなかった。保護の対象となるのは西群の遺構で、丘陵の西半400mの間に分布する。本丸には土塁が良好に遺存している。南側に大手門、北側に搦手門(からめてもん)、東側に東門があり、西側の土塁には鉢巻石垣と腰巻石垣が上下2段にわたって構築されている。これらの石垣は堀尾氏によって構築されたものと考えられる。本丸では発掘調査により枯山水の庭園や礎石建物が検出され、大手の調査では最大幅9mに及ぶ大規模な道が造成されていることが明らかとなった。南方に展開する浜松平野の眺望、開放的な大手道や庭園の存在など、鳥羽山城跡は居館としての性格を有する城郭と考えられる。 このように、二俣城跡及び鳥羽山城跡は、戦国期に造られ、堀尾氏によって織豊系城郭として整備され、前者は軍事的拠点として、後者は居館として、機能を分化しつつ整備された様子をよく示す城跡である。戦国期から近世にかけての城郭の変遷と、政治・軍事のあり方とを知る上で重要であることから、史跡に指定し、一体的に保護を図るものである。