国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
犬山城跡
ふりがな
:
いぬやまじょうあと
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
室町~戦国
年代
:
西暦
:
面積
:
45905.63 m
2
その他参考となるべき事項
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告示番号
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特別区分
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指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
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愛知県
所在地(市区町村)
:
愛知県犬山市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
犬山城跡は木曽川沿いの標高約85mの独立丘陵(通称「城山(しろやま)」)を中心に築かれた中近世の城跡である。天文6年(1537)の築城と伝えられるものの,確実な史料は存在していない。天正18年(1590)以降,秀吉の甥である豊臣秀次の父三好吉房の支配下に入った。その後,木曽代官の石川光吉などが支配するが,元和3年(1617),尾張藩付(つけ)家老(がろう)として成瀬(なるせ)正成(まさなり)が,二代将軍秀忠より犬山城を拝領し,以後,成瀬家が江戸時代を通じて犬山城主を務めた。明治になると愛知県が管理する稲置公園が設置され,城郭内の建物の払い下げが行われる。明治24年の濃尾地震を契機に,旧藩主である成瀬正肥(まさみつ)に払い下げられ,昭和10年には天守が国宝の指定(文化財保護法で国宝に再指定)を受けた。平成16年に,財団法人犬山城白帝文庫(現公益財団法人)が設立され,個人所有から財団所有となって今日に至っている。犬山市教育委員会による総合調査により,切岸や箱堀,大手門跡の堀や土塁の痕跡が明らかとなった。石垣は近代以降改変された箇所も少なくないが,本丸や樅(もみ)の丸(まる)などに良好に遺存している。石垣修復許可の老中(ろうじゅう)奉書(ほうしょ)や絵図資料も豊富である。このように犬山城跡は,現存国宝天守の一つを有し,また,公益財団法人犬山城白帝文庫が所蔵する史資料群とあいまって,戦国期から近世にかけての城郭の変遷,政治・軍事のあり方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
犬山城跡は木曽川沿いの標高約85mの独立丘陵(通称「城山(しろやま)」)を中心に築かれた中近世の城跡である。天文6年(1537)の築城と伝えられるものの,確実な史料は存在していない。天正18年(1590)以降,秀吉の甥である豊臣秀次の父三好吉房の支配下に入った。その後,木曽代官の石川光吉などが支配するが,元和3年(1617),尾張藩付(つけ)家老(がろう)として成瀬(なるせ)正成(まさなり)が,二代将軍秀忠より犬山城を拝領し,以後,成瀬家が江戸時代を通じて犬山城主を務めた。明治になると愛知県が管理する稲置公園が設置され,城郭内の建物の払い下げが行われる。明治24年の濃尾地震を契機に,旧藩主である成瀬正肥(まさみつ)に払い下げられ,昭和10年には天守が国宝の指定(文化財保護法で国宝に再指定)を受けた。平成16年に,財団法人犬山城白帝文庫(現公益財団法人)が設立され,個人所有から財団所有となって今日に至っている。犬山市教育委員会による総合調査により,切岸や箱堀,大手門跡の堀や土塁の痕跡が明らかとなった。石垣は近代以降改変された箇所も少なくないが,本丸や樅(もみ)の丸(まる)などに良好に遺存している。石垣修復許可の老中(ろうじゅう)奉書(ほうしょ)や絵図資料も豊富である。このように犬山城跡は,現存国宝天守の一つを有し,また,公益財団法人犬山城白帝文庫が所蔵する史資料群とあいまって,戦国期から近世にかけての城郭の変遷,政治・軍事のあり方を知る上で重要である。
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詳細解説
犬山城跡は木曽川沿いの標高約85mの独立丘陵(通称「城山(しろやま)」)を中心に築かれた中近世の城跡である。天文6年(1537)の築城と伝えられ、築城以前には、式内社である針(はり)綱(つな)神社(じんじゃ)が鎮座していたとされるが、築城時期を示す確実な史料は存在しない。永禄8年(1565)、小牧を拠点とする織田信長が犬山に進攻するが、その際、「犬山落城」との記事がみえる(「快川紹喜書状写」)。さらに、天正12年(1584)に起こった小牧長久手の戦いでは主戦場の一つとなり、天正18年(1590)以降、秀吉の甥である豊臣秀次の父三好吉房、さらに吉房二男の豊臣秀勝の支配下に入った。その後、木曽代官の石川光吉が兼務する時期を経て、関ヶ原の戦い以後は小笠原吉(よし)次(つぐ)、次いで平岩親(ちか)吉(よし)が城主となり、元和3年(1617)、尾張藩付家老(つけがろう)として成瀬正成(まさなり)が、二代将軍秀忠より犬山城を拝領し、以後、成瀬家が江戸時代を通じて犬山城主を務めた。 正成が天守を改築したとの伝えがあり、2代正虎は天守裏の木曽川沿いの尾根に千貫(せんがん)櫓(やぐら)を建てた(『尾濃葉栗見聞集』)。正保の城絵図の控えである「犬山城絵図」(正保4年〈1647〉、徳川林政史研究所所蔵)をみると、松の丸に石垣はなく、3代正親(まさちか)によって整備がなされたものと考えられる。天保13年(1842)には、火災により桐の丸、松の丸、樅の丸の櫓や御殿などが焼失し、8代正住(まさずみ)によって復興がなされている。 慶応4年(1868)1月に太政官から藩屏(はんぺい)に列せられるとの申し渡しがあり、尾張藩から独立して犬山藩が誕生し、9代成瀬正肥(まさみつ)は版籍奉還により犬山藩知事となった。明治8年(1875)、愛知県が管理する稲置公園が設置され、城郭内の建物の払い下げが行われ、同15年(1882)、針綱神社が公園内に遷座した。犬山城は明治24年(1891)の濃尾地震により大きな被害を受け、地域住民を中心に修理の機運が高まり、愛知県は修理を条件に城地を無償で旧藩主である成瀬正肥に払い下げることとした。昭和6年に名勝木曽川の一部として犬山城の土地が指定を受け、同10年には天守が国宝の指定(文化財保護法で国宝に再指定)を受けた。平成16年に、財団法人犬山城白帝文庫(現公益財団法人)が設立され、個人所有から財団所有となって今日に至っている。 犬山市教育委員会は、平成20年度の地形詳細測量調査を嚆矢に、翌年度より3か年、城跡の範囲と遺構の遺存状況の把握を目的に発掘調査を実施し、切岸や箱堀、大手門跡の堀や土塁の痕跡を明らかとした。犬山城跡は天守のある本丸を最高所とし、その南側の大手道を挟んで東側に杉の丸、桐の丸、松の丸、西側に樅の丸が配されている。桐の丸には現在針綱神社本殿が、松の丸には同参集殿と三光稲荷神社が存在する。三光稲荷神社は城郭中心部の南西に位置する、現在丸の内緑地公園となっている丘陵(三光寺山)に所在していたもので、戦後現在地に移転したものである。三光寺山は三の丸を画する堀の内側に位置し、城郭の一部をなしていた。出土遺物には天正後半から慶長期にさかのぼる瓦類や文禄から慶長期の桐(きり)文(もん)の棟(むな)込(ごめ)瓦(がわら)があり、城山の南側平坦地では戦国期にさかのぼる灰釉(かいゆう)小皿(こざら)などの遺物がある。また、それらと平行して歴史学、建築学、考古学、歴史地理学などからなる総合的調査が実施された。天守は、石垣上の外観は三重、内部は石垣上が四階、穴蔵が二階で、南面東端及び西面北端に附櫓が付く。前期望楼型天守の特徴を備えているが、昭和の解体修理の結果、創建当初は二重二階で、のちに三重目(三・四階)が増築されたことなどが明らかとされている。今回の調査においては、一・二階部分の柱に古拙な加工痕が存在すること、大手道に複数の外枡形が連続する構造は織豊系の縄張りの特徴であることが指摘された。また、公益財団法人犬山城白帝文庫所蔵の史資料などから城下町の形成過程についても解明が進められている。石垣は近代以降改変された箇所も少なくないが、本丸や樅の丸などに良好に遺存している。寛永7年(1630)から慶応元年(1865)までの石垣修復許可の老中奉書が31通確認されており(同文庫所蔵)、絵図と合わせて比較検討することも可能である。 このように犬山城跡は、現存国宝天守の一つを有し、また、公益財団法人犬山城白帝文庫が所蔵する史資料群とあいまって、戦国期から近世にかけての城郭の変遷を知る上で重要であり、また、わが国近世の政治・軍事のあり方を知る上で重要な城跡である。よって史跡に指定し、保護を図るものである。