国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
由義寺跡
ふりがな
:
ゆげでらあと
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良
年代
:
西暦
:
面積
:
10498.46 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府八尾市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
道鏡の出身氏族である弓削(ゆげ)氏(し)の本拠地と考えられる八尾市東弓削で新たに見つかった寺跡で,天平14年(742)の「弓削寺僧行聖優(う)婆(ば)塞(そく)貢(こう)進(しん)解(げ)」にみえる弓削寺,『続日本紀』にみえる「由義寺塔」と考えられる。発掘調査により一辺約20mの大規模な塔の基壇が検出され,その規模は諸国の国分寺の規模をしのぎ,大安寺の七重塔の規模に匹敵する。基壇周囲から出土した大量の瓦は奈良時代後半のもので,東大寺式と興福寺式といった官の造営による寺に葺かれた軒瓦が多数含まれている。このことは,『続日本紀』宝亀元年4月5日条から分かる官造営機構の動員による塔の造営を裏付けるものと評価される。さらに,塔の周辺では同時期の他の建物は検出されておらず,これは宝亀元年8月21日に道鏡が造下野国薬師寺別当として左遷され失脚することと関係する可能性がある。こうしたことから,発掘された塔跡は,称徳天皇の発願による由義寺の塔であると考えられる。
由義寺跡は,弓削氏の氏寺として成立するが道鏡の台頭によって,奈良時代後半には西京(にしのきょう)における官寺として塔の造営が行われたと考えられ,その動向は,奈良時代後半における政治・社会情勢を反映しており,称徳天皇と道鏡による政策を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
道鏡の出身氏族である弓削(ゆげ)氏(し)の本拠地と考えられる八尾市東弓削で新たに見つかった寺跡で,天平14年(742)の「弓削寺僧行聖優(う)婆(ば)塞(そく)貢(こう)進(しん)解(げ)」にみえる弓削寺,『続日本紀』にみえる「由義寺塔」と考えられる。発掘調査により一辺約20mの大規模な塔の基壇が検出され,その規模は諸国の国分寺の規模をしのぎ,大安寺の七重塔の規模に匹敵する。基壇周囲から出土した大量の瓦は奈良時代後半のもので,東大寺式と興福寺式といった官の造営による寺に葺かれた軒瓦が多数含まれている。このことは,『続日本紀』宝亀元年4月5日条から分かる官造営機構の動員による塔の造営を裏付けるものと評価される。さらに,塔の周辺では同時期の他の建物は検出されておらず,これは宝亀元年8月21日に道鏡が造下野国薬師寺別当として左遷され失脚することと関係する可能性がある。こうしたことから,発掘された塔跡は,称徳天皇の発願による由義寺の塔であると考えられる。 由義寺跡は,弓削氏の氏寺として成立するが道鏡の台頭によって,奈良時代後半には西京(にしのきょう)における官寺として塔の造営が行われたと考えられ,その動向は,奈良時代後半における政治・社会情勢を反映しており,称徳天皇と道鏡による政策を知る上でも重要である。
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詳細解説
由義寺跡は、生駒山地西側の旧大和川が八尾市二俣で分流する玉串川と長瀬川に挟まれた沖積地上に位置する古代寺院跡である。この付近は、弓削道鏡の出身氏族である弓削氏の本拠地と考えられている。付近に「大門」、「古宮」、「古屋敷」といった地名が残り、その付近では奈良時代の瓦が出土することから、天平14年(742)12月30日の「弓削寺僧行聖優(う)婆(ば)塞(そく)貢(こう)進(しん)解(げ)」などに寺名がみえる弓削寺の推定地とされていた。弓削寺は『続日本紀』天平神護元年(765)10月30日条及び閏10月1日条に称徳天皇の行幸、礼仏と食封(じきふ)200戸の施入の記事がみえ、宝亀元年(770)4月5日条に「由義寺塔」の造営に係る記事がみえる。また、弓削寺付近には弓削行宮があったことが知られ、神護景雲3年(769)10月30日に由義宮を中心とした地域を西京(にしのきょう)としたことが知られる。なお、由義宮は天平神護元年までは弓削行宮とされていたが、神護景雲3年10月17日の行幸からは由義宮と記載されている。弓削寺も宮の改称とともに、由義寺に改められたと考えられる。 平成28年度に八尾市東弓削で計画された東部大阪都市計画事業曙川南土地区画整理事業に伴う発掘調査を、(公財)八尾市文化財調査研究会が実施したところ、東大寺式や興福寺式の軒瓦を含む瓦が集中して大量に出土した。この成果を受けて八尾市教育委員会は、瓦の集中地点を中心に遺跡の内容確認のための発掘調査を実施したところ、大規模な塔の基壇を検出した。塔基壇は、基壇外装は残っていないが、延石(のべいし)の抜き取りと考えられる凝灰岩片を含む溝が四方にめぐることから一辺約20mの規模であることが判明した。これは、諸国の国分寺の規模をしのぎ、大安寺の七重塔の規模に匹敵する。 また、基壇は粘質土と砂質土の薄い層を交互に突き固めた版築工法で築かれ、最も残りのよい部分は高さ約70cmである。心礎をはじめとする礎石が失われているため、柱の位置や数、柱間寸法は不明だが、塔廃絶後に基壇上面に掘り込まれた後世の土坑から、四天柱又は側柱の礎石の可能性がある巨石や円柱座をもつ礎石が出土している。なお、この土坑からは塔の地鎮具と考えられる和同開珎や萬年通寶、神功開寶などの銭貨、佐波(さは)理(り)鋺の破片なども出土した。 基壇周囲から出土した大量の瓦の中には、東大寺式と興福寺式の軒瓦が多数含まれている。また、瓦とともに相輪の一部である伏鉢もしくは請花の可能性がある復元直径約90cmの銅製品が出土している。出土した軒瓦は奈良時代後半のもので、塔基壇の規模が官の大寺に匹敵すること、この地が「由義寺」の推定地にあたることから、由義寺の塔跡である可能性が極めて高いことが明らかになった。また、大阪平野ではこれまで出土していない東大寺式と興福寺式の軒瓦が採用されていることは、『続日本紀』宝亀元年4月5日条にみえる「詔して、由義寺の塔を造りし諸司の人、及び雑工(ざふく)等九十五人に、労の軽重(けいちょう)に随(したが)ひて、位階を加へ賜ふ。」という記事から分かる官造営機構の動員を裏付けるものと評価される。さらに、塔の周辺では同時期の他の建物は検出されておらず、これは宝亀元年8月21日に道鏡が造下野国薬師寺別当として左遷され失脚することと関係する可能性がある。こうしたことから、発掘された塔跡は由義寺のものであると考えられる。 由義寺跡は、弓削氏の氏寺として成立するが道鏡の台頭によって、奈良時代後半には西京における官寺として塔の造営などの整備が行われたと考えられる。こうした由義寺の動向は、奈良時代後半における政治・社会情勢を反映しており、称徳天皇と道鏡による政策を知る上でも重要である。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。