国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
津和野藩主亀井家墓所
附亀井茲矩墓
ふりがな
:
つわのはんしゅかめいけぼしょ
つけたりかめいこれのりぼ
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
119420.42 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
:
指定基準
:
七.墳墓及び碑
所在都道府県
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島根県
所在地(市区町村)
:
島根県鹿足郡津和野町、鳥取県鳥取市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
江戸時代,石見(いわみ)国(のくに)津和野藩初代藩主となった政矩(まさのり)以下,幕末に至る歴代藩主を葬った乙(おと)雄山(おやま)墓所及び菩提寺であった永(よう)明寺(めいじ)(島根県津和野町)と,政矩の父で因幡(いなば)国(のくに)鹿野(しかの)藩主であった亀井家初代茲矩(これのり)墓(のはか)(鳥取県鳥取市)から成る近世大名家墓所である。茲矩は,弘治3年(1557)戦国大名尼子(あまご)氏(し)の家臣の家に生まれ,主家再興のため毛利氏と戦い,後に羽柴秀吉のもとで功績を挙げて鹿野城主となり,慶長17年(1612)鹿野に没した。跡を継いだ政矩は,元和3年(1617)津和野に転封となり,以後亀井家は津和野藩主として明治維新に至った。津和野城下町の北西に位置する乙雄山中腹には,歴代藩主と一族の墓が一体的に営まれ,尖(せん)頂方柱型(ちょうほうちゅうがた),唐(から)破風(はふ)屋根(やね)付方柱型(つきほうちゅうがた),そして他の大名家に見られない独特な位牌型(いはいがた)の墓標が採用され注目される。乙雄山南西に位置する永明寺には江戸期の本堂などが残り菩提寺としての雰囲気を良く残す。境内に残る藩主一族・家臣墓の墓標形態は,藩主墓を最上位の規範とした序列に基づく。亀井茲矩墓は,鹿野城跡北西約 3㎞の武蔵(むさし)山(やま)頂部に造営され,亀井家の津和野移封後も維持された。その尖頂方柱型の墓標は成立期の大名墓の形態をよく示す。近世大名の葬制や祖先祭祀の在り方,藩主を頂点とする身分序列を示すものとして貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
江戸時代,石見(いわみ)国(のくに)津和野藩初代藩主となった政矩(まさのり)以下,幕末に至る歴代藩主を葬った乙(おと)雄山(おやま)墓所及び菩提寺であった永(よう)明寺(めいじ)(島根県津和野町)と,政矩の父で因幡(いなば)国(のくに)鹿野(しかの)藩主であった亀井家初代茲矩(これのり)墓(のはか)(鳥取県鳥取市)から成る近世大名家墓所である。茲矩は,弘治3年(1557)戦国大名尼子(あまご)氏(し)の家臣の家に生まれ,主家再興のため毛利氏と戦い,後に羽柴秀吉のもとで功績を挙げて鹿野城主となり,慶長17年(1612)鹿野に没した。跡を継いだ政矩は,元和3年(1617)津和野に転封となり,以後亀井家は津和野藩主として明治維新に至った。津和野城下町の北西に位置する乙雄山中腹には,歴代藩主と一族の墓が一体的に営まれ,尖(せん)頂方柱型(ちょうほうちゅうがた),唐(から)破風(はふ)屋根(やね)付方柱型(つきほうちゅうがた),そして他の大名家に見られない独特な位牌型(いはいがた)の墓標が採用され注目される。乙雄山南西に位置する永明寺には江戸期の本堂などが残り菩提寺としての雰囲気を良く残す。境内に残る藩主一族・家臣墓の墓標形態は,藩主墓を最上位の規範とした序列に基づく。亀井茲矩墓は,鹿野城跡北西約 3㎞の武蔵(むさし)山(やま)頂部に造営され,亀井家の津和野移封後も維持された。その尖頂方柱型の墓標は成立期の大名墓の形態をよく示す。近世大名の葬制や祖先祭祀の在り方,藩主を頂点とする身分序列を示すものとして貴重である。
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詳細解説
津和野藩主亀井家墓所附亀井茲矩墓は、江戸時代、因幡(いなば)国(のくに)鹿野(しかの)藩主(はんしゅ)となった亀井家初代茲矩と、茲矩次男で石見(いわみ)国(のくに)津和野藩初代藩主となった政矩(まさのり)以下、幕末に至る歴代藩主を葬った大名家墓所である。茲矩墓は鳥取県鳥取市に、政矩以下歴代の津和野藩主亀井家墓所は島根県鹿足郡津和野町に所在する。 亀井家初代の茲矩は、戦国大名尼子(あまご)氏の家臣湯(ゆ)永(なが)綱(つな)の子として弘治3年(1557)出雲(いずも)国(のくに)湯之庄(ゆのしょう)に生まれ、尼子氏滅亡後は尼子勝(かつ)久(ひさ)・山中(やまなか)幸(ゆき)盛(もり)(鹿(しか)介(のすけ))と尼子再興のため毛利氏と戦い、幸盛の女と婚をなし、尼子旧臣亀井家の家名を継いだ。その後、幸盛とともに織田信長に従い、幸盛の死後はその部下を率いて羽柴秀吉に属した。天正8年(1580)、鹿野城(現・鳥取市)に拠って毛利方と戦い、同9年秀吉の鳥取城攻略に貢献した。その功績により鹿野城主となった。秀吉政権下では石見銀山を採掘し、秀吉に琉球を望んで琉球(りゅうきゅう)守(のかみ)と称した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功績によって加増、3万8千石を領した。また、交易にも取組み、マカオ・タイに朱印船を派遣した。慶長17年(1612)没すると、その遺領は次男政矩が継ぎ、自身の旧領とあわせて4万3千石を領したが、元和3年(1617)、同石高をもって石見国津和野に転封となり、以後幕末に至るまで亀井家が津和野藩主として治政を司った。最後の藩主11代茲監(これみ)は、明治初期の神祇政策推進者として有名である。 茲矩墓は、鹿野城跡の北西約3km、明星(みょうじょう)ヶ(が)鼻(はな)(名字(みょうじ)ヶ(が)鼻(はな)とも)とかつて呼ばれた、比高約40mの山頂に位置する。麓から山頂までは幅約3mの参道が続き、東西約33m・南北約15mの楕円形に造成された山頂平坦部の西端に、東向きで墳墓が設けられている。二重の台座があり(下段は正面640cm・側面650cm・高さ・側面90cm・高さ30cmの台石を置き、その上に墓標を据えている。墓標は安山岩製で全高308cm、下部から上部に向けて次第に細くなり、先端部は山状に尖る尖(せん)頂(ちょう)方柱型(ほうちゅうがた)(角(かく)塔婆形(とうばがた))を呈する。四方は下部で正面67cm・側面59cm、上部で60cm・側面44cmを測る。墓碑の各面には発心門(ほっしんもん)、修行門(しゅぎょうもん)、菩提門(ぼだいもん)、涅槃門(ねはんもん)を示す梵字が刻まれ、全体として大日如来を表現する。このうち東方(正面)の発心門の中央下部に3行の刻字があり中央には茲矩の戒名「中山道(ちゅうざんどう)月(げつ)大居士(だいこじ)」とある。「中山」は琉球の別名であり、茲矩が琉球を所領として望んだことに因むものとされる。亀井家は津和野に移った後も、地元山宮集落の田中家に墓の管理を委ね、年忌には家臣を派遣して祭祀を行った。元禄13年(1700)に津和野藩が茲矩墓や菩提寺である譲伝寺(じょうでんじ)を調査した記録や、『因幡(いなば)誌(し)』(寛政7年〈1795〉)の記載もある。鳥取市教育委員会では、平成28・29年度に茲矩墓の実測、発掘調査、文献調査などを実施した。その結果、明治時代以降の修補もあり、昭和18年(1943)鳥取大地震での被害もあったが、良好な遺存状態であることを確認した。 津和野藩主亀井家墓所は、津和野城下町の北西に位置する乙(おと)雄山(おやま)中腹に所在する歴代墓所と、歴代墓所の南西に谷を挟んで所在する亀井家の菩提寺であった永(よう)明寺(めいじ)から成る。津和野町教育委員会では、平成22年度に乙雄山の発掘調査、墓石調査、文献調査などを、平成28・29年度には永明寺の総合調査を実施し、津和野藩主亀井家墓所の歴史的価値を調査した。乙雄山の墓所は、東西方向の斜面を長さ約64mにわたり造成して最大幅約18mの平場をつくり、北側は幅約12mで東側に約36m張り出す逆L字型の形状の区画で、東側に参道が取り付き入口を設けている。この区画内に藩主、同夫人、子女などの墓71基、区画外の隣接地の平場に藩主側室などの墓11基、合計81基が立ち並ぶ。藩主墓は、初代藩主政矩墓では茲矩墓と同じ尖頂方柱型墓標であり、2代以降幕末までに没した藩主墓は、位牌型(いはいがた)又は唐(から)破風(はふ)屋根(やね)付(つき)方柱型(ほうちゅうがた)墓標が採用されている。藩主墓に特徴的なのは、他の大名家には類例のない独特の形状をした位牌型墓標が5代藩主墓より採用され、定型化したことである。また、大規模な石組基壇も2代藩主より採用され、同じく定型化している。なお、区画内には、関東大震災後の大正15年(1926)に東京から移された、神道形式の自然石による11代藩主茲監墓なども含まれる。 永明寺は、山号を覚皇山という曹洞宗寺院で、寺伝によれば開基は吉見頼(よしみより)弘(ひろ)であり、応永27年(1420)のこととされ、開山は道元の法孫、月因とされる。亀井家の入封後に藩主菩提寺となって、末寺70余ヶ寺を擁したといい、西の大乗、石州本山と称された。元禄11年(1698)の火災で堂宇が焼失、現在の本堂は安永年間の再建で、安政6年(1859)に庫裏、書院の再建と、鐘楼の新設が行われた。本堂裏には藩主の位牌を安置する御霊所が設けられている。境内地内の東側及び南側には、歴代住職墓のほか、亀井家一族の高崎(こうざき)亀井家(かめいけ)や家老の多胡家(たごけ)をはじめとする家臣団の墓所が展開している。これらの墓標形態からは、藩主墓を最上位の規範とした序列が認められ、藩主墓と同様の形式変遷をたどるなど、関連性が高いことがわかった。 このように、乙雄山墓所は、津和野に移封後の歴代藩主と藩主家一族の墓として一体的に営まれたものであり、他の大名に多く見られる五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)を採用せず、尖頂方柱型、唐破風屋根付方柱型、そして他の大名家に見られない独特な位牌型を採用しており、注目される。永明寺は藩主菩提寺院として江戸時代の様相を良く残すとともに、境内所在の墓の形態からは家格や出自により墓石形式に規範が見られることが窺える。亀井茲矩墓は近世大名墓の成立期の形態を示すものとして、また移封後における大名家の祖先祭祀の在り方を知る上でも貴重である。よって、これらを津和野藩主亀井家墓所附亀井茲矩墓として史跡に指定し、一体的な保護を図るものである。