国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
石見銀山街道
ふりがな
:
いわみぎんざんかいどう
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解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
23636.09 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
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特別区分
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指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
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島根県
所在地(市区町村)
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島根県邑智郡美郷町
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
江戸時代初期より幕領であった石見銀山で産出した銀を運んだ,石見(いわみ)国(のくに)大森から備後(びんご)国(のくに)尾道までの道である。尾道からは船で大坂まで運んだ。関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は,石見に大久保長安(ながやす)を派遣し,銀山を毛利氏から接収した。石見銀山奉行となった長安は,銀の輸送路に尾道までの陸路を選択し,慶長年間(1610年頃)から灰吹(はいふき)銀(ぎん)の輸送が始まった。輸送は,宿駅伝馬制及び助郷制によって行われ,延宝年間(1673~ 1680)以降は年1回となった。最後の銀輸送である慶応元年(1865)は500人を超える隊列であった。
今回の指定範囲は美郷町のやなしお道など約6kmで,尾根付近を通り,切通,削平,土橋構築などの工法を駆使した比較的平坦な道である。道幅は6尺から9尺で,途中には茶屋跡,一里塚がある。これに対し,東端のやなしお坂は高低差約190mの急坂を16回屈曲しながら下る坂で,人足は増賃で,人数を増強して対応した。
江戸幕府の銀の輸送や交通制度を考える上で欠くことができない街道である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
江戸時代初期より幕領であった石見銀山で産出した銀を運んだ,石見(いわみ)国(のくに)大森から備後(びんご)国(のくに)尾道までの道である。尾道からは船で大坂まで運んだ。関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は,石見に大久保長安(ながやす)を派遣し,銀山を毛利氏から接収した。石見銀山奉行となった長安は,銀の輸送路に尾道までの陸路を選択し,慶長年間(1610年頃)から灰吹(はいふき)銀(ぎん)の輸送が始まった。輸送は,宿駅伝馬制及び助郷制によって行われ,延宝年間(1673~ 1680)以降は年1回となった。最後の銀輸送である慶応元年(1865)は500人を超える隊列であった。 今回の指定範囲は美郷町のやなしお道など約6kmで,尾根付近を通り,切通,削平,土橋構築などの工法を駆使した比較的平坦な道である。道幅は6尺から9尺で,途中には茶屋跡,一里塚がある。これに対し,東端のやなしお坂は高低差約190mの急坂を16回屈曲しながら下る坂で,人足は増賃で,人数を増強して対応した。 江戸幕府の銀の輸送や交通制度を考える上で欠くことができない街道である。
詳細解説▶
詳細解説
石見銀山街道は、江戸時代初期より幕領であった石見銀山で産出した銀を大坂や京まで運んだ、石見銀山のある石見国大森から備後国尾道までの道である。尾道からは船で大坂まで運んで江戸幕府に上納した。 慶長5年(1600)関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見に大久保長安を派遣し、銀山を毛利氏から接収した。慶長6年に石見銀山奉行となった長安は、銀の輸送路について、尾道までの陸路を選択し、慶長年間(1610年頃)から尾道までの陸路を利用した輸送が始まった。文化10年(1813)に備後国吉舎(きさ)を通った伊能忠敬はこの道を「銀山街道」と記している。輸送は、江戸初期は年数回行われていたが、陣屋による灰吹銀の総買い上げ制が始まった延宝年間(1673~1680)以降については年1回10月下旬から11月上旬に石見国大森を出発し、現在の美郷町内を通り出雲国、備後国の三次や府中を経由し尾道まで輸送し、尾道からは広島藩、姫路藩によって瀬戸内海を船で運搬され、大坂城、更には京都の銀座まで運ばれた。明和5年(1768)の場合は、灰吹銀(12箱、約118貫)、丁銀、銅などを140疋の馬で運び、文化8年(1811)の場合は、18世紀後半からの銅生産の急増により、馬280疋で運んだ。慶応2年(1866)に長州軍に石見国が占領され、幕府による灰吹銀輸送は終焉を迎えるが、その直前の慶応元年の輸送の際には、灰吹銀7箱などを運ぶ総勢約500人の隊列であった。 平成8年に島根県教育委員会が島根県歴史の道調査を行い、大森から美郷町内を通り島根県境である飯南町の赤名峠までの道や、大森から温泉津までの道の調査を行った。その後、平成16年に同県教委により、大森から日本海に向かう温泉津(ゆのつ)、鞆ケ浦への道の調査が行われ、大田市内の道が平成17年に史跡石見銀山遺跡として追加指定された。平成19年に石見銀山遺跡とその文化的景観が世界文化遺産に登録され、石見銀山街道鞆ケ浦道、温泉津・沖泊道として構成資産となると、隣接した美郷町でも石見銀山街道を利用したウォーキングイベントなどが行われるようになり、平成28年から美郷町教育委員会によって遺構や文献の調査が行われて、石見銀山街道の歴史的意義や規模、構造が明らかとなった。 今回指定を行おうとするのは、この石見銀山街道のうち、島根県美郷町のやなしお道約6.7kmと、森原古道140mである。 やなしお道は、島根県大田市の石見銀山大森から東に9.8km離れた美郷町小松地を起点とする約6.7kmである。ここから美郷町湯抱(ゆがかえ)のやなしお坂まで距離5kmで65mと高低差が少なく、最短距離を結ぶルートが設定され、尾根や尾根筋の少し下方が選ばれて、切通、削平、版築による盛土、土橋などの工法がとられている。おおむね道幅は6尺から9尺である。途中には西から、平坦地に礎石が残る十王堂跡及び茶屋跡、斜面を壇上に削平した230㎡の平坦面をもつ茶屋屋敷跡及びそれに隣接した一辺3mの方形土坑である水溜場跡、一里塚(高さ1mのものと1.5mのもの)などがある。また尾根と尾根が途切れている谷間を盛土でかさ上げしつなげた土橋が7か所あり、最長のものは長さが51mある。重い荷物を運ぶためなされた造成事業である。 これに対し、東端のやなしお坂は距離1.6kmで高低差約190mの急坂を16回屈曲しながら下る坂である。坂の途中には荷置石や中の休といわれる休憩場所がある。中の休は90㎡の平坦地で、隣接して江戸時代後期の石碑がある。安政2年(1855)の文書(美郷町教育委員会所蔵)には「簗塩(やなしお)坂中の休の雨寄生堂(あまよけどう)」という記述もある。灰吹銀の輸送は、宿駅伝馬制及び助郷制によって行われ、宿駅間で御定(おさだめ)賃銭が規定されていたが、「八名塩坂(簗塩坂)」のある萩原村と粕渕村の間は難場なので人足一人につき10文の増賃で、人足も増加して対応した。 森原古道は大森から東に28.6kmの位置にある140m余りの道で、平成21年に圃場整備事業に伴う美郷町教育委員会による事前の発掘調査によって、平面北側の斜面において護岸のための約1.1mの高さの石垣が検出された。ここから5kmほど南東に進むと石見国と出雲国の国境に至る。 年に一度の銀輸送に際しての具体的な道普請の仕様については、たとえば享和2年(1802)の文書(美郷町教育委員会所蔵)に記載があり、平場で岩石のない場所は道幅を7尺から9尺までとし、山や坂の場合は6尺より狭くせず、水を流すために左右に溝を作るべきこと、平地における樹木伐採などの道普請は村負担とすることなどが記されている。また、ほかの普請は公儀入用だったが、これらの費用は郡中割として銀山領内の各村に割賦されたものだった。 以上のように、石見銀山街道は江戸幕府が直轄支配を行っていた石見銀山産出の銀を大坂や京に運んだ街道であり、残存状況は良好である。江戸幕府の銀輸送や交通制度を考える上で欠くことができないものであり、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。