国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
出雲国山陰道跡
ふりがな
:
いずものくにさんいんどうあと
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良
年代
:
西暦
:
面積
:
21979.47 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
島根県
所在地(市区町村)
:
島根県出雲市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
山陰道は,7世紀後半から8世紀にかけて古代国家が都を起点に全国に張りめぐらせた七道駅(しちどうえき)路(ろ)の一つである。『出雲国風土記』では「正西道(まにしのみち)」と記されている。発掘調査などにより,尾根上を東西に約1kmにわたって延びる道路遺構を確認し,今回はこのうち西側 650mを指定する。道路遺構は地形によって工法を変えており,尾根上を通過する部分では両側に側溝をもち,その心々間距離は9mに及ぶ。丘陵斜面を通過する部分では,斜面を切り崩し,その土を北側の谷部へ最大3m以上の厚さで盛って路面を構築しており,切り土部分との比高は8mに及び,5m以上の幅をもった路面を造りだしている。
路面等から7世紀後半以降の須恵器や7世紀末から8世紀前半の土師器が出土したことから,この道路遺構は遅くとも8世紀前半には機能していたことが判明した。検出地点が山陰道の推定路線上にあたること,道路幅が古代官道の規模と同様であること,出土遺物の時期などから,この道路遺構が山陰道跡であることが確実となった。
古代に作道された道路跡が延長1kmにわたって良好な状態で保存されており,地形に応じて様々な工法がとられるなど当時の土木技術を知ることができるだけでなく,その路線の一部が確定したことにより,『出雲国風土記』にみえる当時の道路網や沿線の官衙,寺院などの施設と照合することができる事例として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
山陰道は,7世紀後半から8世紀にかけて古代国家が都を起点に全国に張りめぐらせた七道駅(しちどうえき)路(ろ)の一つである。『出雲国風土記』では「正西道(まにしのみち)」と記されている。発掘調査などにより,尾根上を東西に約1kmにわたって延びる道路遺構を確認し,今回はこのうち西側 650mを指定する。道路遺構は地形によって工法を変えており,尾根上を通過する部分では両側に側溝をもち,その心々間距離は9mに及ぶ。丘陵斜面を通過する部分では,斜面を切り崩し,その土を北側の谷部へ最大3m以上の厚さで盛って路面を構築しており,切り土部分との比高は8mに及び,5m以上の幅をもった路面を造りだしている。 路面等から7世紀後半以降の須恵器や7世紀末から8世紀前半の土師器が出土したことから,この道路遺構は遅くとも8世紀前半には機能していたことが判明した。検出地点が山陰道の推定路線上にあたること,道路幅が古代官道の規模と同様であること,出土遺物の時期などから,この道路遺構が山陰道跡であることが確実となった。 古代に作道された道路跡が延長1kmにわたって良好な状態で保存されており,地形に応じて様々な工法がとられるなど当時の土木技術を知ることができるだけでなく,その路線の一部が確定したことにより,『出雲国風土記』にみえる当時の道路網や沿線の官衙,寺院などの施設と照合することができる事例として重要である。
詳細解説▶
詳細解説
山陰道跡は、7世紀後半から8世紀にかけて古代国家が都を起点に全国に張りめぐらせた七道駅路の一つである。七道駅路は都と地方拠点を最短距離で結ぶように直線的に敷設されていること、道幅が10m前後となるものが多いという共通する特徴を有しており、1970年代から直線的な地割りや地名を手がかりに、路線復元が行われてきた。 また、出雲国においては『出雲国風土記』がほぼ完全な形で残っており、その記述から、官衙や寺院などの諸施設と道路網との関係が詳細に把握できる。なお、『出雲国風土記』では山陰道は「正西道(まにしのみち)」と記されている。 平成24年度に、歴史地理学の研究による山陰道の推定路線の一つであり、地元で「筑紫街道」と呼ばれる幅2~3m程度の近世の道を含む地域で大規模な工業団地造成が計画された。出雲市教育委員会が発掘調査を実施したところ、筑紫街道が通過する標高約25mの尾根上で東西に延びる道路遺構を検出した。道路遺構は両側に側溝をもち、側溝心々間距離は9mに及ぶ。路面上では、道路遺構に伴いしばしば検出される波(なみ)板状(いたじょう)凹(おう)凸面(とつめん)が確認され、その埋土から7世紀後半以降の須恵器が出土し、道路造成の際の切土斜面から7世紀末から8世紀前半の土師器が出土した。このことから、この道路遺構は遅くとも8世紀前半には機能していたことが判明した。また、路面に当たる部分では11世紀中頃から13世紀初頭のものと考えられる大溝が検出されていることから、この頃には廃絶していたと考えられる。検出地点が山陰道の推定路線上にあたること、道路幅が古代官道の規模と同様であること、出土遺物の時期などから、この道路遺構が山陰道跡であることが確実となった。また、七道駅路は通常、可能な限り平野部を通過するよう作道されているのに対し、この道路は丘陵尾根上に直線を意識して作道されていることが特徴であり、約1kmにわたって切通しや窪地状の地形として痕跡を留めている。 出雲市教育委員会は遺跡の重要性に鑑み、工業団地造成の設計変更を行い道路遺構の現状保存を行うとともに、検出地点の東西に認められる道路痕跡の発掘調査を行うこととした。 工業団地造成に伴う調査地の西端から約70m西方に設定した調査区では、丘陵の南斜面を切り崩し、その土を北側の谷部へ最大3m以上の厚さで盛って路面を構築していることが明らかになった。切り土部分の比高は8mに及び、5m以上の幅をもった路面を造りだしている。また、切り土の裾付近には幅約1m、深さ約0.8mの側溝があり、少なくとも3回の掘り直しが認められた。 工業団地造成に伴う調査地の東側では、平成11~16年度に斐川町教育委員会が発掘調査を実施しており、道路の路面もしくは路床と考えられる版築状の盛り土や高さ約6m、上幅約30mの切通し状の地形を延長約100mにわたって確認している。版築状の盛り土は、地山を水平に掘削した後に、幅約6mにわたり、きめ細かい砂質土を厚さ約10cm単位に締固め、厚さ最大80cm以上盛っている。両地点で検出した道路遺構は、その規模などから工業団地造成に伴う発掘調査地点で検出した道路遺構と連続する山陰道跡であることが確実であり、作道に当たっては、地形に合わせて切土・盛り土工法や切通しなど多彩な土木技術を駆使していたことが判明した。 古代官道跡が延長1kmにわたってその痕跡を留めていることは全国的にみても稀有な事例であるとともに、地形に応じて様々な工法がとられるなど当時の土木技術を知ることができる事例としても重要である。また、出雲国山陰道跡は『出雲国風土記』の記載から、当時の道路網や沿線の施設を知ることができ、その路線の一部が確定したことにより、風土記に見える景観を現在と照合させることができる。特に今回の検出地点は出雲郡家の「東のほとり」で、正西道と枉(おう)北道(ほくどう)が合流する交差点の東方約1kmの地点に位置しており、出雲国の道路網と郡家の関係を知る上でも重要な地点である。よって史跡に指定し保護を図ろうとするものである。