国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
煙雲館庭園
ふりがな
:
えんうんかんていえん
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
江戸~近代
年代
:
西暦
:
面積
:
21625.81 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
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宮城県
所在地(市区町村)
:
宮城県気仙沼市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
宮城県北東沿岸部,北上山地南部の三陸リアス式海岸が続く気仙沼湾西岸の丘陵部に立地し,東方には大島,南方には岩井崎の勝景を望む。この地は仙台藩上級家臣鮎貝(あゆかい)氏の旧居館であり,近代の文学者・落合(おちあい)直(なお)文(ぶみ)の生家としても知られる。庭園は仙台藩茶道頭,石州流(せきしゅうりゅう)清水派の二世動(どう)閑(かん)による寛文年間(1661-1673)の作庭に始まるものと伝えられる。敷地は丘陵の南向き中腹部を2段に造成して平場を成し,上段に主屋を構えて西向きに園池を地割の中心とした主庭を設け,西側丘陵地斜面から北側,東側にかけて背景林が取り囲む。主庭は,東西約30m,南北約20mの園池の西寄りに,北西-南東の長軸で約16mを測る円形の大きな中島を配して地割の要とする。現在の主屋は幕末期に再建されたものであるが,西側に奥座敷と表座敷,南側に中座敷と表座敷を向け,表座敷を観賞の首座として,地割と調和している。
江戸時代前期に端緒を発して近代に至るまで鮎貝氏の館に維持され,主庭の大きな築山(つきやま)を成す中島を備えた園池と背景林が成す幽邃(ゆうすい)と気仙沼湾への眺望が成す宏大を兼ね備えた庭園として優秀な事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
宮城県北東沿岸部,北上山地南部の三陸リアス式海岸が続く気仙沼湾西岸の丘陵部に立地し,東方には大島,南方には岩井崎の勝景を望む。この地は仙台藩上級家臣鮎貝(あゆかい)氏の旧居館であり,近代の文学者・落合(おちあい)直(なお)文(ぶみ)の生家としても知られる。庭園は仙台藩茶道頭,石州流(せきしゅうりゅう)清水派の二世動(どう)閑(かん)による寛文年間(1661-1673)の作庭に始まるものと伝えられる。敷地は丘陵の南向き中腹部を2段に造成して平場を成し,上段に主屋を構えて西向きに園池を地割の中心とした主庭を設け,西側丘陵地斜面から北側,東側にかけて背景林が取り囲む。主庭は,東西約30m,南北約20mの園池の西寄りに,北西-南東の長軸で約16mを測る円形の大きな中島を配して地割の要とする。現在の主屋は幕末期に再建されたものであるが,西側に奥座敷と表座敷,南側に中座敷と表座敷を向け,表座敷を観賞の首座として,地割と調和している。 江戸時代前期に端緒を発して近代に至るまで鮎貝氏の館に維持され,主庭の大きな築山(つきやま)を成す中島を備えた園池と背景林が成す幽邃(ゆうすい)と気仙沼湾への眺望が成す宏大を兼ね備えた庭園として優秀な事例である。
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詳細解説
煙雲館庭園は、宮城県北東沿岸部、北上山地南部の三陸リアス式海岸が続く気仙沼湾西岸の丘陵部に立地し、東南方には大島、南方には岩井崎の勝景を望む。この地は仙台藩上級家臣鮎貝(あゆかい)氏の旧居館であり、庭園は仙台藩茶道頭、石(せき)州(しゅう)流(りゅう)清水派の二世動(どう)閑(かん)による寛文年間(1661-1673)の作庭に始まるものと伝えられるが、後に有備館の作庭に携わった三世動(どう)竿(かん)によって元禄5年(1692)頃までに地割の大要が整えられたものとも考えられている。 鮎貝氏は、藤原安親(ふじわらのやすちか)(922-996)を遠祖とし、応永3年(1396)に初代成(しげ)宗(むね)が出(で)羽(わ)国(のくに)置賜(おきたま)郡下(しも)長(なが)井(い)荘(のしょう)鮎貝に築城して鮎貝氏を名乗り、宗(むね)信(のぶ)まで六代にわたって居城としたが、伊達晴宗(政宗の祖父;1519-1578)の家臣となり、伊達氏の岩出山城移封に追従して御一家筆頭の家格を与えられた。二代陸奥仙台藩主忠(ただ)宗(むね)(1600-1658)のとき、七代宗(むね)益(ます)が本吉郡松崎に一千石を拝領し、現在の地に居館を構え、代々藩の要職を務めて、幕末には泊浜唐船番所の海防警備を担った。幕末期の十六代盛房(もりふさ)(1834-1894)は戊辰戦争で大隊長として従軍し、その長子盛(もり)徳(とく)(1857-1941)は初代の気仙沼町長として地元発展に貢献した。また、次子盛(もり)光(みつ)(1861-1903)は、国文学者の落合直(なお)亮(あき)(1827-1894)の養子となって、後に自ら直(なお)文(ぶみ)を名乗り、明治26年(1893)には朝鮮民俗学者で歌人の実弟・鮎貝房之進(槐(かい)園(えん);1864-1946)や与謝野鉄幹らとともに短歌結社「浅香社」を創設して短歌革新運動を進めるなど、我が国の近代国語教育や文芸界に顕著な足跡を残した。今日では、その生家としてもよく知られ、園内の気仙沼湾をよく眺望する北側高台には「おくところよろしきを得ておきおけば皆おもしろし庭の庭石」と詠んだ落合直文の歌碑が据えられている。 明治33年(1900)に漢詩人の村岡恭一郎(1861-1902)が著した『煙雲館記』によれば、館号を記した扁額は国学者・歌人の賀(か)茂(も)季(すえ)鷹(たか)(1754-1841)の揮毫によるものと伝えることから、鮎貝氏の館には、遅くとも江戸時代後期には「煙雲」の名が付せられていたことが窺われる。「煙雲」には、幽邃宏大な園林の優れた風致とともに、太平の世にあって武略に富む鮎貝氏の落着きどころとし、天恩に報いて祖徳に答えながら、臥龍にも似た地勢の丘陵に暮らし楽しむ風趣が込められている。 敷地は丘陵の南向き中腹部を2段に造成して平場を成し、上段に主屋を構えて西向きに園池を地割の中心とした主庭を設け、西側丘陵地斜面から北側、東側にかけて背景林が取り囲む。下段は、かつて広間のあった旧屋敷地であるが、現在は広場となっていて、平場の北西部には昭和40年代に上段からの斜面に枯滝石組みを築き、そのたもとに石組み護岸の園池が整備された。美濃の文人で漂泊の絵師、蓑(みの)虫(むし)山(さん)人(じん)(1836-1900)が明治27年(1894)に煙雲館に逗留した際に残した『本吉郡松崎村鮎貝氏煙雲館』には、北側の丘陵高所から手前に主庭の園池と築山状の中島を、さらに奥には気仙沼湾の岬と島が東西に連なる雄大な景勝を望み、印象深く強調された青色の水面の広がりを表現することで、優れた地勢と一体となった庭園の宏大な様子が描かれている。 主庭は、東西約30m、南北約20mの園池の西寄りに、北西-南東の長軸で約16m、北東-南西の短軸で約14mを測る円形の大きな中島を配して地割の要とする。中島は高さ4m余りの大きな築山に、景石護岸と立石の配石、裾部のサツキ、中腹のクロマツ、頂部のドウダンツツジが景趣を成し、さらに園池の西側には中島より高く築山の連なりを築き、南側にも続けて巡らせ、カエデを植えて彩りを添えている。また、園地北岸のシダレイトスギは、主屋から望む右手斜面に固有の風致を特徴づけている。主屋は江戸時代中期に焼失し、現在の主屋はその後の仮普請として幕末期に再建されたものであるが、西側に奥座敷と表座敷、南側に中座敷と表座敷を向け、表座敷を観賞の首座として、地割と調和している。各座敷の縁側にはそれぞれ平場を設けて飛び石を打ち、西側には両脇にアカガシの古木2本を添えて大きな飛び石を中央に据えて中島の正面に臨み、南側台地の縁辺に神輿石を置いて気仙沼湾の優れた眺望を楽しむ標(しるし)としている。 背景林はスギの植林が主体を成して主庭の幽邃を演出し、敷地西側の南に伸びる丘陵尾根部には鮎貝氏累代に係る墓所が設けられ、自然石の墓碑群は長くこの地に営まれてきた鮎貝氏の聖域を今に伝える。 以上のように、煙雲館庭園は、江戸時代前期に端緒を発して近代に至るまで鮎貝氏の館に維持され、主庭の大きな築山を成す中島を備えた園池と背景林が成す幽邃と気仙沼湾への眺望が成す宏大を兼ね備えた庭園であり、芸術上及び観賞上の価値が高いことから、名勝に指定して保護するものである。