国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
旧広瀬氏庭園
ふりがな
:
きゅうひろせしていえん
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
明治~大正
年代
:
西暦
:
面積
:
29358.89 m
2
その他参考となるべき事項
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告示番号
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特別区分
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指定年月日
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2018.02.13(平成30.02.13)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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一.公園、庭園
所在都道府県
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愛媛県
所在地(市区町村)
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愛媛県新居浜市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
愛媛県東部,大永山(だいえいやま)から燧灘(ひうちなだ)に流れ込む国領(こくりょう)川(がわ)とその支流によって形成された扇状地上部の台地に位置し,上原(うわばら)に所在する。この地は明治時代半ばに,別子銅山支配人や住友家総理人を務めた広瀬宰平(さいへい)の本邸が設けられたところで,庭園の地割は,本邸まわり,亀池,南庭(なんてい)の3つに区分され,それぞれ主たる造営・整備の時期に照応する。本邸まわりの庭園は,主屋と新座敷の東側に広がる内庭(うちにわ),主屋・新座敷・新土蔵に囲まれた中庭,新座敷の茶室前の露地(ろじ),その西側の西庭(にしにわ)から成り,明治23年(1890)の別子開坑200年祭までに迎賓空間としてその全体が整えられた。主庭たる内庭は,新座敷の手前から,芝生の緩斜面,中島を擁する園池,樹林に覆われた築山(つきやま)を配して奥行を演出し,園池に土橋風の石橋を渡して築山に飛び石を打ち,散策するように設えられている。亀池は,嘉永4年(1851)に泉屋住友家により築造されたもので,明治24年(1891)から明治27年(1894)にかけて周遊路や千歳(ちとせ)島(じま)などが築造された。南庭は,宰平の長男・満正(まんせい)により父祖(ふそ)顕彰の場として大正時代に整備された。明治時代半ばから大正時代にかけて造営を重ね,迎賓・祝祭・顕彰の場を兼ね備えた近代日本における地方の庭園文化発展を示す重要な事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
愛媛県東部,大永山(だいえいやま)から燧灘(ひうちなだ)に流れ込む国領(こくりょう)川(がわ)とその支流によって形成された扇状地上部の台地に位置し,上原(うわばら)に所在する。この地は明治時代半ばに,別子銅山支配人や住友家総理人を務めた広瀬宰平(さいへい)の本邸が設けられたところで,庭園の地割は,本邸まわり,亀池,南庭(なんてい)の3つに区分され,それぞれ主たる造営・整備の時期に照応する。本邸まわりの庭園は,主屋と新座敷の東側に広がる内庭(うちにわ),主屋・新座敷・新土蔵に囲まれた中庭,新座敷の茶室前の露地(ろじ),その西側の西庭(にしにわ)から成り,明治23年(1890)の別子開坑200年祭までに迎賓空間としてその全体が整えられた。主庭たる内庭は,新座敷の手前から,芝生の緩斜面,中島を擁する園池,樹林に覆われた築山(つきやま)を配して奥行を演出し,園池に土橋風の石橋を渡して築山に飛び石を打ち,散策するように設えられている。亀池は,嘉永4年(1851)に泉屋住友家により築造されたもので,明治24年(1891)から明治27年(1894)にかけて周遊路や千歳(ちとせ)島(じま)などが築造された。南庭は,宰平の長男・満正(まんせい)により父祖(ふそ)顕彰の場として大正時代に整備された。明治時代半ばから大正時代にかけて造営を重ね,迎賓・祝祭・顕彰の場を兼ね備えた近代日本における地方の庭園文化発展を示す重要な事例である。
詳細解説▶
詳細解説
旧広瀬氏庭園は、愛媛県東部、大(だい)永(えい)山(やま)から燧(ひうち)灘(なだ)に流れ込む国(こく)領(りょう)川(がわ)とその支流によって形成された扇状地上部の台地に位置し、上(うわ)原(ばら)に所在する。この地域は18世紀初頭から畑地として耕作されていたが、痩せ地で村民は困窮し、溜池を備えて田地へ転換することを長く望んできた。元禄4年(1691)に泉屋住友家が開坑した別子銅山では、江戸時代末期において労働者の飯米確保に苦心していたところ、地元村民からの要望を受け、嘉永4年(1851)に栩(とち)谷(だに)からの余水を利用して方形を成す中之町池(亀池)を築造し、中(なか)萩(はぎ)村(むら)上原の新田開発に着手したが、その成果は捗々(はかばか)しくなかった。 新居浜の広瀬家は、美濃国安八郡神戸村(現・岐阜県安(あん)八(ぱち)郡(ぐん)神(ごう)戸(ど)町(ちょう))出身で、別子銅山に吹方元締役として務め、金子村久保田に居住した義右衛門(ぎえもん)義(よし)泰(やす)に始まる。義泰は、田畑を購入して地主にもなっていたが、抜擢され江戸の浅草米店支配人として手腕を発揮し、嘉永元年(1848)に隠居して金子村に戻り、住友予州別家となった。 近江国野洲郡八(や)夫(ぶ)村(現・滋賀県野洲市中(ちゅう)主(ず)町)の医者・北脇(きたわき)理三郎の次男として生まれた新右衛門(満(みつ)忠(ただ)、1828-1919)は、天保7年(1836)、後に別子銅山支配人となる叔父・北脇治右衛門に随伴して移住し、同9年住友家の奉公人となって勘場(鉱業所本部)に勤務した。安政2年(1855)に住友家十代目家長の友(とも)視(み)の取り計らいで広瀬家の養子となり、同4年には家督を譲り受け、宰(さい)平(へい)を名乗った。宰平は、自家の農地経営にも尽力し、万延元年(1860)には西条藩から金子村の庄屋格を命ぜられた。慶応元年(1865)には別子銅山支配人となって、明治維新に際しては、土佐藩に接収された別子銅山の稼業権を新政府に認めさせ、財政難を理由とした住友家重役による売却の意見に反対して別子銅山の経営権を維持し、外国人技術者を呼び寄せて採鉱・精錬・運搬の近代化を推し進めるなど数々の功績を挙げ、明治10年(1877)には住友家の初代総理代人、同15年には総理人となった。 この間、宰平は、住友経営負担軽減のため、明治6年(1873)に上原新田の自家への払い下げを申し出たところ、それまでの功績によって譲渡されることとなり、茶畑として開墾するため上原出張所を設置した。また、明治8年から明治10年にかけて金子村久保田の本邸を新造し、別子銅山の繁栄を一眸する主屋の2階を「望(ぼう)煙(えん)楼(ろう)」と名付けた。明治15年には滋賀県滋賀郡と京都府宇治郡の茶師5人を雇い入れて上原の茶業に本格的に取り組み、明治17年に上原出張所の建物と製茶工場を新築して、さらに翌18年以降、久保田本邸の上原への移築に着手し、明治22年の新座敷の竣工を以て概ね完成した。この頃、宰平は、明治11年に大阪商法会議所副会頭に就任したほか、明治17年に大阪商船会社を設立するなど、主に大阪で活動していたため、この本邸の造営、移転などは、長男・満(まん)正(せい)(1859-1928)との遣り取りを通じて差配した。今日に伝わる旧広瀬氏庭園は、この上原への移転に伴って、大阪をはじめとする関西圏から大工や庭師を呼び寄せ、明治20年(1887)に本邸まわりから造営が始まった。地割の全体は、本邸まわり、亀池、南庭(なんてい)の3つに区分され、それぞれ主たる造営・整備の時期に照応する。 本邸は東向きを正面として、門番所を備えた表門から主屋に向けて切り石を直線に敷き並べて両脇に砂利を敷き、さらにホウライチクの生垣で囲って通路を成す。久保田本邸から移築した主屋には、南側に新座敷、北側に米蔵・金物蔵・離れ、西側には料理場・新土蔵が接続し、さらに西側には乾蔵・醤油庫などが配置されている。 主屋は、移築に際して西向きに90度回して2階の「望煙楼」は新居浜の新興工業地の発展と東側の赤(あか)石(いし)山系の風光を望むかたちとし、新座敷の西側には茶室と湯殿を付属させた。本邸まわりの地割は、主屋と新座敷の東側に広がる内(うち)庭(にわ)、主屋・新座敷・新土蔵に囲まれた中庭、新座敷の茶室前の露地、そして、その西側の西(にし)庭(にわ)から成り、明治23年(1890)の別子開坑200年祭までに迎賓空間としてその全体が整えられた。 内庭は、新座敷の手前から、芝生の緩斜面、中島を擁する園池、樹林に覆われた築山を配して奥行を演出し、園池に土橋風の石橋を渡して築山に飛び石を打ち、散策するように設えられている。築山には銅製三重塔「凌(りょう)雲(うん)塔(とう)」が据えられて点景を成し、左手には玄関への通路に庭門を設けてその脇に茅葺の茶室「指(し)月(げつ)庵(あん)」を配置し、さらに庭門から芝生を横切って新座敷前へ長い延べ段を設け、右手対岸の池畔には東屋「潺(せん)潺(せん)亭(てい)」が中島に寄り添うように迫り出している。園池は、栩谷からの用水を分岐して取り込み「潺潺亭」の左手奥の滝石組から流して水源とする。導水は貴重な灌漑水を維持するために鉄管による暗渠とするとともに、池底にもセメントを打設するなど、極力遺漏を防いで再び用水に戻すかたちとしており、近代に特徴ある素材と工法を作庭に応用した初期の事例として注目される。園池護岸や景石、飛び石などの庭石は地元に産出する三波川変成帯の結晶片岩を用いる一方で、石燈籠や手水鉢などの石造品は京都から仕入れたものを随所に配置している。表門の近く左手奥には本邸移設に際して移植したクスノキが大きな樹陰を成すほか、中島には主景木となるアカマツ、築山にはヒノキ、エノキ、ヤマモモ、カエデ類などをはじめとした多様な樹木が植栽されて東側から南側の山並みに続く優れた風致を形成しており、園内にはツツジ類が点綴し、また、主屋の縁先手水周辺に添えられたコウヤマキやカリンなどが植栽されている。 明治22年(1889)、欧米に巡遊した宰平は万国博覧会の祝祭空間が公園となっているのを実見し、その経験を中之町池(亀池)の整備に活かした。明治24年から取り組まれた修築工事では、堤の内側を石積みとして、東岸近くには亀形の中之島(千(ち)歳(とせ)島(じま))を築造して石橋を渡したほか、南西畔の入隅部に唐津神社社殿を建てて白水(泉屋住友)、広脇(広瀬・北脇)、高尾(土地神)を奉る三社を合祀して、明治27年までにその全容がほぼ整えられ、さらに、明治30年には石積みを二段築成として周遊路を設けるとともに植栽して修景された。明治31年6月には、宰平の故郷、近江竹生島の弁財天を勧進してその銅像を千歳島に据えて鎮座供養が行われ、同年10月には、内庭と亀池を会場として2日間にわたり宰平の古稀祝賀会が挙行された。 一方、本邸南辺の村道は道幅狭く勾配も急で不便であったところ、新道に付け替える話が持ち上がり、村道を挟んで所有していた南畑を本邸敷地に取り込みたい広瀬家の意向とも合致し、明治38年(1905)に南畑の南辺を新道として、邸宅境界の煉瓦塀を設置し始めた。大正3年(1914)に宰平が亡くなると、満正は拡張したこの敷地を父祖顕彰の場として南庭造営に着手した。南庭の敷地は、内庭から一段高く石積みと煉瓦塀で仕切られていたが、同4年に煉瓦塀は撤去され、いまはイヌマキとサザンカの生垣によって仕切られている。同5年には敷地北東に「広(ひろ)脇(わき)神社」を建て、同9年からは敷地南辺中央部に持仏堂たる「靖(せい)献(けん)堂(どう)」、同12年からはその北西に煉瓦書庫「馨(けい)原(げん)文(ぶん)庫(こ)」の建築が始められ、内庭の新座敷への屋根付き通路も設えられた。同13年には「靖献堂」の開堂式が挙行され、森厳たる樹林と開かれた芝生から成る静謐な空間が整えられた。 以上のように、旧広瀬氏庭園は、広瀬宰平・満正の2代にわたり、明治時代半ばから大正時代にかけて造営を重ね、迎賓・祝祭・顕彰の場を兼ね備えた近代日本における地方の庭園文化発展を示す重要な事例であり、芸術上及び観賞上の価値が高いことから、名勝に指定して保護するものである。