国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡
ふりがな
:
ちょうじゃやまかんがいせきおよびひたちのくにかいどうあと
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良~平安
年代
:
西暦
:
面積
:
45879.42 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
茨城県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
日立市北部の洪積台地東端,標高20~25mに立地する奈良時代から平安時代にかけての官衙遺跡である。遺跡の東側の低地には,「目(め)島(しま)」などの小字名があることから『常陸(ひたち)国(のくに)風土記(ふどき)』に記され,弘仁3年(812)10月28日に廃止された「藻(め)島(しまの)駅(うま)家(や)」が存在する可能性が指摘されてきた。日立市教育委員会による発掘調査により,幅5.5~6.7m(一部が最大16.5m以上に拡幅)の古代官道と考えられる道路跡に東接して,溝で区画された東西134~165m,南北110~116mの範囲の中から,8世紀中葉から10世紀代の掘立柱建物群と礎石建物群が見つかった。8世紀中葉から9世紀中葉の施設は12棟の掘立柱建物からなる。これらの建物はコの字型に配置されていると考えられ,中には同一位置で1~2回の建て替えが認められるものもある。一方,9世紀中葉以降の施設は,倉庫と考えられる8棟の礎石建物からなる。前者の施設は施設の立地や藻島駅家の存続時期が合致することから藻島駅家跡の可能性が考えられ,後者の施設は多珂郡正倉別院の可能性が考えられる。
長者山官衙遺跡は交通と密接に関わる官衙遺跡であり,常陸国北部における駅路とその周辺施設の変遷を示すだけでなく,古代国家の交通政策を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
日立市北部の洪積台地東端,標高20~25mに立地する奈良時代から平安時代にかけての官衙遺跡である。遺跡の東側の低地には,「目(め)島(しま)」などの小字名があることから『常陸(ひたち)国(のくに)風土記(ふどき)』に記され,弘仁3年(812)10月28日に廃止された「藻(め)島(しまの)駅(うま)家(や)」が存在する可能性が指摘されてきた。日立市教育委員会による発掘調査により,幅5.5~6.7m(一部が最大16.5m以上に拡幅)の古代官道と考えられる道路跡に東接して,溝で区画された東西134~165m,南北110~116mの範囲の中から,8世紀中葉から10世紀代の掘立柱建物群と礎石建物群が見つかった。8世紀中葉から9世紀中葉の施設は12棟の掘立柱建物からなる。これらの建物はコの字型に配置されていると考えられ,中には同一位置で1~2回の建て替えが認められるものもある。一方,9世紀中葉以降の施設は,倉庫と考えられる8棟の礎石建物からなる。前者の施設は施設の立地や藻島駅家の存続時期が合致することから藻島駅家跡の可能性が考えられ,後者の施設は多珂郡正倉別院の可能性が考えられる。 長者山官衙遺跡は交通と密接に関わる官衙遺跡であり,常陸国北部における駅路とその周辺施設の変遷を示すだけでなく,古代国家の交通政策を知る上でも重要である。
詳細解説▶
詳細解説
長者山官衙遺跡は日立市北部の洪積台地東端、標高20~25mに立地する奈良時代から平安時代にかけての官衙遺跡である。遺跡の東側の低地には、「目(め)島(しま)」、「目(め)島(しま)中(なか)道(みち)」、「目(め)島(しま)中(なか)町(まち)」の小字名があり、この周辺に『常陸(ひたち)国(のくに)風土記(ふどき)』に見える「藻(め)嶋(しまの)駅(うま)家(や)」が存在する可能性が指摘されている。 藻嶋駅家は『常陸国風土記』多珂(たか)郡の項に、「郡の南三十里に藻嶋駅家あり、東南の浜に碁石あり、色は珠玉のごとし」とある。多珂郡家の位置は未確定であるが、東南の浜は長者山官衙遺跡の南南東、約2kmの地点にある碁石浦に比定されている。また、『続日本紀』養老3年(719)閏7月21日条に石城国に駅家十処を置くとあることから、この路線に接続する駅路に置かれた藻嶋駅家はそれ以前に存在した可能性が高い。さらに、『日本後紀』によると弘仁2年(811)には陸奥国の海道十駅が廃止され、翌弘仁3年10月28日に、安(あ)侯(こ)、河内(こうち)、石橋(いしばし)、助川(すけがわ)、棚(たな)嶋(しま)の駅家とともに廃止されたとある。これらの記事から、常陸国安侯駅家から陸奥国に至る道路は一体的なものであることが分かり、駅家の廃止は、文屋(ふんやの)綿(わた)麻呂(まろ)による蝦夷征討終了の年とその翌年にあたることから、蝦夷との戦争終結に関係するとみられる。 平成17~18年度にかけて、日立市は十王町史編纂事業として旧十王町域に残る古代官道の痕跡の可能性がある切り通し状の地形と藻嶋駅家が所在する可能性が指摘されていた愛宕神社境内付近の測量調査と発掘調査を実施した。平成17年度の調査では、切り通し状の地形は時期こそ確定できなかったものの、幅6.7mの両側に側溝をもつ道路遺構であることが明らかになった。切り通し状の地形は、延長約190mにわたり直線的に延びており、翌18年度の調査では、さらに南へ150mにわたって延びることが明らかになった。また、愛宕神社境内に接する地点では道幅を16mに広げており、道路東側では道路に並行する幅3~4m、深さ2mの溝を検出した。道路遺構の規模や直線的に敷設されていることから、この道路遺構は古代官道である可能性が高いことが明らかになった。また、愛宕神社境内で礎石建物1棟を確認した。 これらの成果を受けて日立市教育委員会は、平成20から27年度にかけて愛宕神社境内を中心に継続的な発掘調査を実施した。その結果、平成18年度の調査で検出した溝は、東西134~165m、南北110~116mの範囲を不整台形状に区画する溝であることが明らかになり、その内部から、8世紀代から10世紀代にかけての掘立柱建物と礎石建物などを検出した。また、遺跡の東部では区画溝に先行する7世紀後半代の竪穴建物を検出した。 検出した遺構は大きく3期に区分できる。Ⅰ期は7世紀後半から8世紀中葉に相当し、遺跡の東側で7世紀後半代の竪穴建物を7棟、西側で8世紀中葉の南北方向の溝などを検出している。Ⅱ期は、8世紀中葉から9世紀中葉に相当し、9棟の掘立柱建物から成る。 これらの建物はコの字型に配置されていると考えられ、中には同一位置で1~2回の建て替えが認められるものもある。出土遺物には墨書土器などがある。区画溝は、この時期に掘削されたと考えられ、西辺が道路遺構と並行することから、道路遺構も同時期に造られた可能性がある。なお、掘立柱建物SB06の柱穴の埋土上層から炭化穀類が出土している。これは、放射性炭素年代測定による暦年較正値が7世紀末から9世紀初頭の年代を示す固結した状態の炭化穀類とヒエ近似種であり、イネは配列がそろった状態で密着した部分も認められるので、稲穂が束になった状態で貯蔵されていたものが、火災により炭化したと考えられる。 Ⅲ期は9世紀中葉から10世紀代に相当し、倉庫と考えられる8棟の礎石建物から成る。これらの建物は、いずれも掘込地業を伴う総柱建物と考えられ、規模は3間四方のものと、桁行3間、梁行4間のものがある。また、建物範囲に礫を敷いたものと、そうでないもの、基壇をもつものともたないものがあるが、建物の配置がコの字型を呈するなど、計画的に配置されている様子がうかがわれることから、ほぼ同時に併存していたと考えられる。なお、礎石建物SB02の掘込地業上面からは、掘立柱建物SB06の柱穴埋土上層から出土したものと同様、固結した状態の炭化穀類が出土している。 Ⅱ期は『常陸国風土記』、『続日本紀』及び『日本後紀』の記事から推定される藻嶋駅家の存続時期(養老3年頃~弘仁3年)におおよそ符合すること、また、古代官道と考えられる道路遺構に近接すること、付近に「目島」の地名があることなどから藻嶋駅家の可能性が考えられる。Ⅲ期は、倉庫と考えられる礎石建物から成ることから多珂郡正倉別院の可能性が考えられる。なお、Ⅰ期の性格は不明である。 長者山官衙遺跡は、古代官道に面して設けられた8世紀中葉から10世紀にかけての官衙遺跡であり、弘仁3年の駅家の廃止に前後して、駅家の可能性のある施設から正倉別院へと性格を変えている可能性が高い。このことは、常陸国北部における駅路とその周辺施設の変遷を示すだけでなく、古代国家の交通網の編成と再編を含めた対東北政策を知る上でも重要である。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。