国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
新津油田金津鉱場跡
ふりがな
:
にいつゆでんかなづこうじょうあと
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
明治~平成
年代
:
西暦
:
面積
:
78639.41 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
新潟県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
明治7年(1874)から平成8年(1996)まで操業が継続した,近現代の石油の採掘・精製に関わる施設である。鉱場跡は新潟市中心部の南方約15㎞に広がる新津(にいつ)丘陵(きゅうりょう)の一角に所在する。同丘陵一帯では江戸時代既に採油事業が行われていたが,幕末に名主職と採油業を受け継いだ中野(なかの)貫一(かんいち)(弘化3年<1846>~昭和3年<1928>)が,日本坑法(にほんこうほう)に基づく採掘権を得て採油を始めた。当初は手掘りであったが,その後,上総(かずさ)掘り,綱式(つなしき)機械(きかい)掘りを採用して事業を軌道に乗せた。明治40年(1907)頃,ポンピングパワー方式を導入して採油事業を拡大し,日本(にっぽん)石油(せきゆ)・宝田(ほうでん)石油(せきゆ)といった大手企業に次ぐ産油規模となった。鉱場跡には,上総掘り井戸,機械掘り井戸といった油井遺構をはじめ,採油の動力源であるポンピングパワー(大正7年)及び上屋(うわや)(大正9年)が現存する。そのほか,動力を伝える継(けい)転機(てんき),集油所(しゅうゆしょ)(明治40年頃),送油所(そうゆしょ)(大正6年),各種タンク,加熱(かねつ)炉(ろ)(昭和43年頃),濾過(ろか)池(ち),旧木工所(きゅうもっこうしょ)(大正13年頃)等が残る。我が国を代表する新津油田の一翼を担い,約120年間操業を継続した施設であり,採油から精製までの一連のシステムが良好に残る。我が国近代のエネルギー産業の発展を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
明治7年(1874)から平成8年(1996)まで操業が継続した,近現代の石油の採掘・精製に関わる施設である。鉱場跡は新潟市中心部の南方約15㎞に広がる新津(にいつ)丘陵(きゅうりょう)の一角に所在する。同丘陵一帯では江戸時代既に採油事業が行われていたが,幕末に名主職と採油業を受け継いだ中野(なかの)貫一(かんいち)(弘化3年<1846>~昭和3年<1928>)が,日本坑法(にほんこうほう)に基づく採掘権を得て採油を始めた。当初は手掘りであったが,その後,上総(かずさ)掘り,綱式(つなしき)機械(きかい)掘りを採用して事業を軌道に乗せた。明治40年(1907)頃,ポンピングパワー方式を導入して採油事業を拡大し,日本(にっぽん)石油(せきゆ)・宝田(ほうでん)石油(せきゆ)といった大手企業に次ぐ産油規模となった。鉱場跡には,上総掘り井戸,機械掘り井戸といった油井遺構をはじめ,採油の動力源であるポンピングパワー(大正7年)及び上屋(うわや)(大正9年)が現存する。そのほか,動力を伝える継(けい)転機(てんき),集油所(しゅうゆしょ)(明治40年頃),送油所(そうゆしょ)(大正6年),各種タンク,加熱(かねつ)炉(ろ)(昭和43年頃),濾過(ろか)池(ち),旧木工所(きゅうもっこうしょ)(大正13年頃)等が残る。我が国を代表する新津油田の一翼を担い,約120年間操業を継続した施設であり,採油から精製までの一連のシステムが良好に残る。我が国近代のエネルギー産業の発展を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
新津油田金津鉱場跡は、明治7年(1874)、新潟県新津村(現・新潟市)の中(なか)野(の)貫一(かんいち)(弘化3年<1846>~昭和3年<1928>)が採油を始め、平成8年(1996)まで操業が継続した、近現代の石油の採掘・精製に関わる施設である。鉱場跡は新潟市中心部の南方約15㎞に広がる新津(にいつ)丘陵の一角に所在する。 新津油田は、越後(えちご)平野を流れる信濃(しなの)川(がわ)と阿賀(あが)野川(のがわ)に挟まれた新津(にいつ)丘陵とその付近に分布する我が国を代表する出油地帯の総称である。その範囲は幅約6㎞、延長約16㎞に及び、金津鉱場跡は油田の南西側に位置する。 新潟と石油との関わりは、古く越国(こしのくに)による「燃土(もゆるつち)」「燃水(もゆるみづ)」の献上記事がよく知られ(『日本書紀』天智(てんじ)天皇7年<668>7月条)、鎌倉時代の奥山荘関係文書にも「くさうつ」(草水)(石油の染み出る地点)の記述が見える。 記録に残る新津油田における採油の歴史は、真柄(まがら)仁(に)兵衛(へえ)が慶長13年(1608)に「草水(くそうず)」を発見し、新発田藩(しばたはん)に願い出て採掘を行ったことに始まる。その後、金津村(かなづむら)名主坂井家(さかいけ)も採掘権を得て経営したが、文化元年(1804)、同村名主の中野(なかの)次郎(じろう)左(ざ)衛門(えもん)が坂井家から権利を買い取り採掘するようになった。 明治6年(1873)、国からの鉱区の借区という形で採掘権を認める日本坑法(にほんこうほう)が制定され、近代的な採油技術も導入され、灯油ランプ用の需要を背景に油井(ゆせい)開発が盛んになった。新潟県内では、日本石油株式会社(明治21年<1888>設立)・宝田石油株式会社(明治25年<1892>設立)の大資本による西山油田・東山油田(共に長岡市)等での採掘が行われた。新津油田では、幕末に金津村名主職と採油業を引き継いだ中野貫一が、日本坑法公布の翌年(明治7年)に金津に採掘権を得て手掘りによる採掘をはじめ、苦難を経ながら、明治20年代には上総(かずさ)掘(ぼ)りを導入して採油事業を一定の軌道に乗せ、明治36年(1903)には綱式(つなしき)機械(きかい)掘(ぼ)りを導入して成功(C1号井)、さらに明治40年(1907)頃、ポンピングパワー方式を導入して一層の事業拡大を図り、新津油田の一翼を担うようになった。明治42年(1909)には経営を法人化して中野合資会社(大正3年<1914>には中野興業株式会社に改組)を設立、金津北方の柄目(がらめ)木(き)に鉱区を設定して経営を拡大した。新津油田全体では、機械掘りの普及、大手資本の本格的参入、共同鑿井(さくせい)、原油需要の灯油から潤滑油・燃料油への変化と増加が要因となって、急速に産油量が伸び、明治末期から大正初期にかけて、全国一の採油量を誇ることとなり、中野興業も日石・宝田に次ぐ産油規模となった。貫一没後に経営を引き継いだ忠(ちゅう)太郎(たろう)(文久2年<1862>~昭和14年<1939>)は、金津を起点に新潟から秋田の豊川(とよかわ)(秋田県潟上市)、黒川(くろかわ)(秋田市)等にも鉱場を拡大し、採油事業展開を図った。 新津油田の産油量は、大正中期以降減少に向かい、昭和10年(1935)には国産原油増産の時代背景から上総掘りによる新規掘削も行われた。太平洋戦争中の昭和17年(1942)には国策により、中野興業は他の6社とともに帝国石油株式会社に合併されて同社の一鉱区となった。戦後も同社による経営が継続したものの、国際的価格競争には勝てず、昭和40年(1965)、同社が新潟県内の各事業所の閉鎖を決めたが、金津鉱区(旧金津鉱場)は丸泉石油(まるいずみせきゆ)興産(こうさん)株式会社に譲渡された。同社は厳しい経営環境のなか事業を継続したが、平成8年、採油を停止し、金津鉱場は閉山となった。その後、平成9~22年に新津市(現・新潟市)による公園整備、平成23~25年にかけては新潟市による一部施設の整備が行われている。 新潟市では、金津鉱場跡の保存活用を図るため、平成26~28年度に金津集落を中心とする、中野興業時代の金津鉱場跡を主な範囲として、遺構分布調査、文献調査等の総合調査を実施した。経営形態の変遷と、採油・油水分離(簡易な精製)・送油の流れに着目すると、金津鉱場跡の歴史的変遷は4期に時期区分できる。まず明治7~40年頃の中野家時代は、手掘り、上総掘りによる採油と、人力による送油が特徴であった。明治40~昭和16年の中野合資会社・中野興業時代には、ポンピングパワーの設置や電化が行われ、精製は油水分離を現地で実施後、パイプラインにより製油所に送油する方式に変更された。昭和17~42年の帝国石油時代には、帝国石油の製油所に製油作業が一本化され、現地で油水分離を実施せずにパイプラインで送油するようになり、加熱施設が不要となった。昭和43~平成8年の丸泉石油興産の時代には、再び小規模精製を現地で実施し、車両で新潟製油所へ送油する方式となった。 金津鉱場跡に残存する遺構としては、まず、油井遺構として上総掘り井戸11(初開削:大正6~昭和14年)、機械掘り井戸13(初開削:明治36~昭和16年)が残る。これらは、単独油井のC3号井(綱式機械掘り井戸。明治36年)と、一斉稼働の複数油井として「ナショナルポンピングパワー」に引き綱が接続された23基の油井に分類される。また、採油の動力源であるポンピングパワー(大正7年)及び上屋(大正9年)が現存するが、これは、大正2年(1913)に米国で特許を得た大型平ベルト式ポンピングパワー採油システム(いわゆるナショナル式ポンピングパワー)を、大正7年(1918)に購入したもので、海外で実用化した初期の機械の我が国への導入・残存例として貴重である。これらは、日本における採油の機械化黎明期の姿を最もよく残すものである。そのほか動力を伝える継転機、集油所(明治40年頃)、送油所(大正6年)、各種タンク、加熱炉(昭和43年頃)、濾過池、旧木工所(大正13年頃)、周辺には中野邸、旧社宅、金津集落等の多くの関連遺構が残るほか、鉱場経営に関わる記録類も多数残存している。 このように、新津油田金津鉱場跡は、近世の採油事業に由来し、近代初頭から平成に至る120年間、我が国を代表する新津油田の一翼を担って操業を継続した施設であり、採油から精製までの一連のシステムが良好に遺存しており貴重である。我が国近代のエネルギー産業の発展と変容過程を知る上で重要であることから、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。