国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
宇治古墳群
ふりがな
:
うじこふんぐん
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古墳
年代
:
西暦
:
面積
:
25596.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
京都府
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
西を宇治川,東を醍醐山地によって画された宇治川右岸域に築造された5基の古墳からなる古墳群である。
古墳群の築造は径46.5mの円墳である観音山古墳に始まる。続いて中期前葉に径40mの円墳である二子山古墳北墳が築造される。3基の埋葬施設から銅鏡,鉄製武器や農工具などの豊富な副葬品が出土している。中期後葉には東西34m,南北30mの円墳である二子山古墳南墳が築造される。埋葬施設から銅鏡,鉄製武器,馬具,農工具などが出土している。 二子山古墳南墳に続いて径30mの円墳である瓦塚古墳が築造される。埋葬施設は礫槨と木棺直葬である。後期前葉には墳長112mで,二重の周濠を持つ前方後円墳である二子塚古墳が築造される。埋葬施設は横穴式石室である。
このように宇治古墳群では観音山古墳から瓦塚古墳という継続的な円墳の築造の後,突如として当該時期南山城地域最大の前方後円墳の二子塚古墳が築造される。これは,ヤマト政権中枢に近い南山城地域において,地域内での古墳の展開とより広域的な政治的動向の両者を示す貴重な事例であり,古墳時代の政治的動向を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
西を宇治川,東を醍醐山地によって画された宇治川右岸域に築造された5基の古墳からなる古墳群である。 古墳群の築造は径46.5mの円墳である観音山古墳に始まる。続いて中期前葉に径40mの円墳である二子山古墳北墳が築造される。3基の埋葬施設から銅鏡,鉄製武器や農工具などの豊富な副葬品が出土している。中期後葉には東西34m,南北30mの円墳である二子山古墳南墳が築造される。埋葬施設から銅鏡,鉄製武器,馬具,農工具などが出土している。 二子山古墳南墳に続いて径30mの円墳である瓦塚古墳が築造される。埋葬施設は礫槨と木棺直葬である。後期前葉には墳長112mで,二重の周濠を持つ前方後円墳である二子塚古墳が築造される。埋葬施設は横穴式石室である。 このように宇治古墳群では観音山古墳から瓦塚古墳という継続的な円墳の築造の後,突如として当該時期南山城地域最大の前方後円墳の二子塚古墳が築造される。これは,ヤマト政権中枢に近い南山城地域において,地域内での古墳の展開とより広域的な政治的動向の両者を示す貴重な事例であり,古墳時代の政治的動向を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
宇治川右岸域は、南と西を宇治川、東を醍醐山地に画された地域である。現在宇治川は宇治橋から下流で北西から北に流れ山科川と合流するが、豊臣秀吉による太閤堤の築堤以前はいくつもの流れに分流していたとみられる。宇治川の渡河点は宇治に置かれ、宇治橋が架けられるなど、交通上の要衝として重要な役割を果たしてきた。 宇治古墳群は、醍醐山地から発する丘陵及び扇状地上に立地する5基の古墳からなる古墳群である。古墳群の築造は直径46.5mの円墳である観音山(かんのんやま)古墳の築造に始まる。段築と葺石を持ち、埋葬施設は竪穴式石室である。出土遺物は確認しておらず詳細は不明だが古墳時代前期と考えられる。観音山古墳に続き中期前葉に二子山古墳北墳が、中期後葉には二子山古墳南墳が築造される。続いて古墳の築造は五ヶ庄(ごかしょう)地区へと移り、中期後葉に瓦塚古墳が築造される。直径30mの円墳で、葺石と埴輪を持ち二段築成をなす。現存する地割から周濠の存在が想定される。礫槨と木棺直葬の2基の埋葬施設が上下に設置されており、盗掘坑から玉杖形金銅製品やガラス玉、鉄鏃などが出土している。後期前葉には古墳群中唯一の大型前方後円墳である二子塚古墳が築造される。 今回指定しようとするのは、二子山古墳北墳、二子山古墳南墳、二子塚古墳である。 二子山古墳北墳と二子山古墳南墳では、昭和43年に土砂採取計画に際して、京都大学文学部考古学研究室及び奈良国立文化財研究所からなる二子山古墳発掘調査団により発掘調査が行われた。その後土砂採取計画は中止となったが、平成26年に再び近隣での開発計画が発生したため、平成28年・29年に宇治市教育委員会による測量調査及び古墳の範囲を確認する発掘調査が行われ、墳丘の詳細が明らかとなった。 二子山古墳北墳は直径40mの円墳で葺石を施すが段築をなさない。墳頂部と墳裾では一部で原位置を保つ円筒埴輪が検出されている。墳頂部には3基の埋葬施設があり、中央槨と東槨は同一墓坑内に、西槨はその墓坑を一部掘り込む形で配置される。中央槨と東槨は盗掘を受けているが、盗掘が及ばない範囲から原位置を保つ副葬品が出土した。中央槨は割竹形木棺の直葬で、鉄剣・鉄鉾・鉄槍・鉄鏃の武器類と、鉄鎌・鉄鉇・鉄鑿・鉄錐・刀子・鍬先の農工具類が出土した。東槨は粘土槨で、鉄斧・鉄鎌・鍬先・手鎌・鉄鉇・鉄鑿・鉄錐・刀子の農工具類が出土した。未盗掘の西槨は粘土槨で、銅鏡、碧玉製勾玉・ガラス小玉・滑石製臼玉等の玉類、竪櫛、鉄刀・鉄剣・鉄槍・鉄鏃の武器類、短甲・冑・頸甲・盾の武具類、鉄斧・鉄鎌・鉄鉇・鉄鑿・鉄柄付手斧の農工具類が出土した。埴輪には円筒埴輪・朝顔形埴輪と家形・靫(ゆぎ)形・草摺形などの形象埴輪がある。副葬品及び埴輪から中期前葉に位置づけられる。 二子山古墳南墳は北墳に隣接する南北30m、東西34mの円墳である。葺石・段築いずれも持たず、墳丘斜面からは形象埴輪が出土している。埋葬施設は箱形木棺の直葬で、一部で盗掘を受けているが多数の副葬品が副葬時の状態を保って出土した。棺内からは、銅鏡、硬玉製勾玉・碧玉製管玉・滑石製臼玉の玉類、鉄刀・鉄剣・鉄鏃・胡籙(ころく)の武器類、短甲・冑・頸甲・籠手・革製草摺・小札甲の武具類、轡・辻金具・三環鈴の馬具、鉄斧・鉄鎌・鉄鉇・針・刀子の農工具類が出土した。棺外からは鉄鉾・石突・盾の武器・武具、鐙・杏葉・雲珠(うず)・鞍金具・辻金具の馬具が出土した。副葬品から中期後葉に位置づけられ、特に3点の甲冑や馬具などは中期後葉の標識的な資料である。 二子塚古墳は墳長112mの大型前方後円墳である。藤原(ふじわらの)忠実(ただざね)の日記である『殿暦(でんりゃく)』康和5年(1103)の記事に「二子墓」、藤原(ふじわらの)頼長(よりなが)の日記である『台記(たいき)』久安6年(1150)の記事に「二子陵」の記述があるなど早くから記録が残されていたが、大正初期には土取りにより後円部が大きく削平され宅地化が進行した。大正4年(1915)には梅原(うめはら)末(すえ)治(じ)により発掘調査が行われ、近畿の大型前方後円墳としては最古段階の横穴式石室を持つことが確認されている。昭和46年度の宇治市教育委員会による測量調査と、昭和60年~平成3年度にかけての宇治市教育委員会による発掘調査により、横穴式石室に伴う礫群や外濠などを確認した。これにより、墳丘は二段築成で、葺石・埴輪を持ち、二重の周濠を持つこと、外堤上にも埴輪が設置されていたことが明らかとなった。埴輪から後期前葉に位置づけられており、墳丘の形態は大阪府高槻市の史跡今城塚古墳とほぼ同形であり、その規模は五分の三に当たるなど強い関連性が指摘されている。 このように宇治古墳群は、古代交通の要衝として重要な役割を果たしてきた宇治川右岸域に、古墳時代前期から後期後葉(4世紀から6世紀前葉頃)にかけて築造された古墳群である。前期の観音山古墳から中期後葉の瓦塚古墳まで、直径30~40m台の円墳が築造されたが、後期前葉に突如として当該時期の山城地域最大の前方後円墳である二子塚古墳が築造される。こうした動向は継続的に中小規模の円墳を築造していた地域勢力が、古墳時代における画期の一つである後期前葉に至り新たな古墳築造の展開をみせた事例といえる。これは地域的な動向と全国的な動向の関わりの一端を良好に示すもので、ヤマト政権中枢と近在する地域の関係を知る上で重要である。また、二子山古墳北墳と二子山古墳南墳は中期を代表する標識的な副葬品の出土により、副葬品研究において重要な役割を果たしてきており、二子塚古墳は近畿における横穴式石室が採用された最古段階の大型前方後円墳として重要である。よって、宇治古墳群のうち保護の急がれる二子山古墳北墳・二子山古墳南墳・二子塚古墳を史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。