国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
板東俘虜収容所跡
ふりがな
:
ばんどうふりょしゅうようしょあと
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
大正
年代
:
西暦
:
面積
:
37079.2 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,九.外国及び外国人に関する遺跡
所在都道府県
:
徳島県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
:
所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
第一次世界大戦中,ドイツとの戦争に伴い発生したドイツ兵俘虜(俘虜とは現在の捕虜のこと)を収容した施設であり,徳島県北東部の鳴門市内西部,阿讃(あさん)山地(さんち)南麓の南側に開けた扇状地上に位置する。大正6年(1917)4月の開所から大正9年(1920)4月の閉所まで約3年間,最大1千名余の捕虜を収容した。所内には,日本側の管理棟,将校用及び下士官以下の兵舎(「廠舎(しょうしゃ)」),浴室・調理場・便所・病院・製パン所等のほか,捕虜自身が建築した施設も多数存在した。日本側は,ハーグ陸戦条約に則り,捕虜に対して人道的に対応し,管理者の運営方針もあって,スポーツや音楽,演劇,講演会等が活発に行われた。捕虜製作品の展示・販売や,地域における橋の建設,地域住民と行った生産活動や文化活動等を通じ,捕虜と周辺住民との間に交流も芽生えた。平成19~23年度に鳴門市教育委員会が廠舎や製パン所等の発掘調査を実施し,収容所の遺構が良好に残ることを確認した。捕虜の文化的活動等を物語る資料も豊富に残る。第一次世界大戦に関する遺跡として希少なものであるとともに,交戦国間における文化交流を象徴する遺跡として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
第一次世界大戦中,ドイツとの戦争に伴い発生したドイツ兵俘虜(俘虜とは現在の捕虜のこと)を収容した施設であり,徳島県北東部の鳴門市内西部,阿讃(あさん)山地(さんち)南麓の南側に開けた扇状地上に位置する。大正6年(1917)4月の開所から大正9年(1920)4月の閉所まで約3年間,最大1千名余の捕虜を収容した。所内には,日本側の管理棟,将校用及び下士官以下の兵舎(「廠舎(しょうしゃ)」),浴室・調理場・便所・病院・製パン所等のほか,捕虜自身が建築した施設も多数存在した。日本側は,ハーグ陸戦条約に則り,捕虜に対して人道的に対応し,管理者の運営方針もあって,スポーツや音楽,演劇,講演会等が活発に行われた。捕虜製作品の展示・販売や,地域における橋の建設,地域住民と行った生産活動や文化活動等を通じ,捕虜と周辺住民との間に交流も芽生えた。平成19~23年度に鳴門市教育委員会が廠舎や製パン所等の発掘調査を実施し,収容所の遺構が良好に残ることを確認した。捕虜の文化的活動等を物語る資料も豊富に残る。第一次世界大戦に関する遺跡として希少なものであるとともに,交戦国間における文化交流を象徴する遺跡として重要である。
詳細解説▶
詳細解説
板東俘虜収容所跡は、第一次世界大戦中、ドイツとの戦争に伴い発生したドイツ兵俘虜を収容した施設である。俘虜とは現在の捕虜のことである。遺跡は徳島県北東部の鳴門市内西部、阿讃(あさん)山地(さんち)南麓の南側に開けた扇状地上に位置する。 大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟に基づき、ドイツが租借していた中国膠州(こうしゅう)湾(わん)の青島(ちんたお)要塞を攻撃して勝利、その結果、総勢約4,700名に及ぶドイツ兵を捕虜として国内に移送することとなった。当初、寺院や公会堂等を利用し12箇所の収容所を設置したが、戦争の長期化に伴い、新設した収容所等6箇所に統合した。本収容所はその一つであり、四国に当初設置した松山・丸亀・徳島の三箇所を統合し、あわせて四国外の収容所からも捕虜を移送して、大正6年(1917)4月の開所から大正9年(1920)4月閉所までの約3年間、最大1千名余の捕虜を収容した。 陸軍演習場用地を利用して設置した収容所は、面積約57,000㎡で、丘陵南麓の南側に出入り口を設け、内部に日本側の管理棟、下士官以下の大半の捕虜を収容した兵舎(「廠舎(しょうしゃ)」)8棟、将校用廠舎2棟、浴室・調理場・便所、病院・製パン所等のほか捕虜自身が建築した施設も多数存在した。施設配置については、捕虜が作成した「板東俘虜収容所要図」(大正8年<1919>ドイツ日本研究所蔵)によって詳細に判明する。 当時の日本は、欧米に対して文明国であることを示そうとして、ハーグ陸戦条約に則り、捕虜に対して人道的に対応した。板東俘虜収容所においては、所長の松江(まつえ)豊(とよ)壽(ひさ)ら管理者の運営方針によって、規則の範囲内で捕虜による様々な活動が広く容認された。スポーツや音楽、演劇、講演会等が活発に行われたほか、捕虜製作品の展示・販売や、地域における橋(ドイツ橋等)の建設、地域住民と行った生産活動や文化活動等を通して,捕虜と周辺住民との間に交流が芽生えた。捕虜の活動状況は彼らの発行した所内新聞や情報誌等から詳細に知ることができるほか、所内で制作されたカラー刷りの印刷物や当時の状況を撮影した写真も多数残されている。また、陸軍側の作成した文書も多数残されており、収容所設置前後の状況や各施設の建設、捕虜の動向や取扱いの経緯等を知ることが出来る。大正9年(1920)の閉所後、敷地は陸軍演習場として利用され、不要な建物の整理も行われた。一部の建物は戦後まで残っていたが、昭和40年代以降、往時の敷地のほぼ西南部分は県営住宅団地として、東半分は昭和53年度から鳴門市ドイツ村公園として利活用されている。 鳴門市教育委員会では、平成19~23年度に収容所跡に関する発掘調査、測量調査・文献調査等を実施した。収容所内の施設は、レンガ積み基礎(イギリス積み)に木造平屋建ての上屋を載せる構造を基本としていた。下士官以下用廠舎は、公園内に長さ約30m、幅7.5mのレンガ積み基礎が4棟分残存する。製パン所については掘立柱建物であり、内部に設置された製パン竈(がま)は、南北4.6m、東西3.7mの規模でレンガ積み基礎が造られ、竈の南側には作業用のピットが付設されていた。製パン竈は当初陸軍が建設したが、たびたび破損したことから、捕虜の設計・施工による改築が行われており、その経緯を記した文書や所内新聞も見つかっている。確認された遺構は改築後のものと考えられよう。そのほか、管理棟、酒(しゅ)保(ほ)付属便所、給水施設及び上下水管の確認調査、ドイツ兵の慰霊碑(大正8年。徳島県指定史跡)に付属する石垣の保存状況の調査も行い、全体として収容所の遺構が良好に遺存することを確認した。 このように、板東俘虜収容所跡は、第一次世界大戦において、日本がドイツ兵捕虜を収容した施設である。発掘調査によって構築物の規模や構造が判明し、遺構が良好に遺存していることが確認できた。当時の具体的な収容状況を窺うことが出来る文献資料等も豊富に残る。また、収容所内外で捕虜による様々な活動が行われたことや、地域住民との交流が行われたことも大きな特色であり、第一次世界大戦に関する遺跡として希少なものであるとともに、交戦国間における市民的活動及び文化交流の事跡を象徴する遺跡である。よって、史跡に指定してその保護を図ろうとするものである。