国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
朝倉須恵器窯跡 小隈窯跡 山隈窯跡
ふりがな
:
あさくらすえきかまあと こぐまかまあと やまぐまかまあと
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古墳
年代
:
西暦
:
面積
:
13029.88 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
福岡県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
小隈窯跡,山隈窯跡,八並(やつなみ)窯跡から構成される初期須恵器窯である。我が国の須恵器生産開始期において一元的な生産供給元と想定されていた大阪府の陶邑(すえむら)窯跡群の操業開始期に近い時期の,代表的須恵器窯として知られる。これまで,旧夜須町教育委員会,九州大学,筑前町教育委員会による発掘調査が行われてきた。小隈窯跡では,半地下式構造の窯跡7基,住居跡1基,工房跡2基,不明遺構1基,土坑2基等を検出した。山隈窯跡では4基の窯跡の存在が知られており,その周囲約800㎡の磁気探査・発掘調査によって,窯に伴う溝状遺構や灰原が確認され,窯跡の範囲が確定した。出土遺物より,古墳時代中期前葉から中葉(5世紀前半)にかけての加耶系初期須恵器生産から,中期後葉(5世紀後半)の陶邑系須恵器生産に移行する実態が明らかとなった。須恵器生産をいち早く開始し,全国的な須恵器の定型化の影響を受けつつも新たな窯や工房を構築しつつ,九州北部の中核的須恵器窯としての役割を果たしたことが判明した。朝倉須恵器窯跡は,初期須恵器を供給する代表的須恵器窯の一つとして須恵器生産開始期の実態を示すとともに,その後,陶邑系須恵器生産を受容し定型化していく過程を一遺跡で知ることができる。朝鮮半島との交流を含め,我が国における須恵器の受容と展開を考える上で極めて重要な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
小隈窯跡,山隈窯跡,八並(やつなみ)窯跡から構成される初期須恵器窯である。我が国の須恵器生産開始期において一元的な生産供給元と想定されていた大阪府の陶邑(すえむら)窯跡群の操業開始期に近い時期の,代表的須恵器窯として知られる。これまで,旧夜須町教育委員会,九州大学,筑前町教育委員会による発掘調査が行われてきた。小隈窯跡では,半地下式構造の窯跡7基,住居跡1基,工房跡2基,不明遺構1基,土坑2基等を検出した。山隈窯跡では4基の窯跡の存在が知られており,その周囲約800㎡の磁気探査・発掘調査によって,窯に伴う溝状遺構や灰原が確認され,窯跡の範囲が確定した。出土遺物より,古墳時代中期前葉から中葉(5世紀前半)にかけての加耶系初期須恵器生産から,中期後葉(5世紀後半)の陶邑系須恵器生産に移行する実態が明らかとなった。須恵器生産をいち早く開始し,全国的な須恵器の定型化の影響を受けつつも新たな窯や工房を構築しつつ,九州北部の中核的須恵器窯としての役割を果たしたことが判明した。朝倉須恵器窯跡は,初期須恵器を供給する代表的須恵器窯の一つとして須恵器生産開始期の実態を示すとともに,その後,陶邑系須恵器生産を受容し定型化していく過程を一遺跡で知ることができる。朝鮮半島との交流を含め,我が国における須恵器の受容と展開を考える上で極めて重要な遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
朝倉須恵器窯跡は小隈窯跡、山隈窯跡、八並(やつなみ)窯跡から構成される初期須恵器窯である。小隈窯跡及び山隈窯跡は町域南端に聳える城山から派生する丘陵部に位置し、八並窯跡は北部山塊からの丘陵先端部に位置する。周辺には古墳時代を通じて集落や古墳群が展開している。前期には古墳群から鉄鋌や刀子などが副葬品として多く出土し、中期以降も馬具や鉄製農耕具の副葬が顕著であることに見られるように、馬の飼養や鍛冶技術などの渡来系文化が色濃い地域である。 これらの窯跡では古くより須恵器が採集されており、昭和50年代以降にそれらの学術研究が重ねられると、我が国の須恵器生産開始期において一元的な生産供給元と想定されていた大阪府の陶邑(すえむら)窯跡群の操業開始期に近い時期の代表的地方窯として評価された。昭和63年に旧夜須町(やすまち)教育委員会が小隈窯跡の保存に向けた確認調査を実施し、2基の窯跡を検出しており、平成元年には、九州大学文学部考古学研究室が山隈窯跡の発掘調査を実施し、4基の窯跡と工房跡とみられる遺構を確認している。 平成23年度に、小隈窯跡において筑前町運動公園造成事業が計画されたことから筑前町教育委員会が確認調査を実施した結果、窯跡や灰原の分布を確認した。このことをうけ、窯跡は運動公園の緑地帯として保存されることとなった。平成24年度からは、遺跡の内容確認のために小隈・山隈・八並窯跡の発掘調査を実施し、小隈窯跡では、窯跡や灰原、工房跡等を新たに確認した。山隈窯跡でも、太平洋戦争中の弾薬庫建設に伴って一部が寸断されているものの、4基の窯跡が部分的に残存していることを確認したが、八並窯跡では現在、窯跡の存在が確認できていない。このうち、今回、指定しようとするのは小隈窯跡及び山隈窯跡である。 小隈窯跡では、窯跡7基、住居跡1基、工房跡2基、不明遺構1基、土坑2基を検出した。4号窯跡を除き、2基ずつ主軸を揃えて構築されている。丘陵南東部には1号窯跡と2号窯跡、6号窯跡と7号窯跡が近接して設けられ、天井が崩落したものもあるが、いずれも半地下式の構造を持つと考えられる。3号窯跡と5号窯跡はその南西に位置し、5号窯跡は天井が崩落している。4号窯跡は丘陵北側斜面に位置し、他の6基の窯跡から大きく北に隔たる。構造が詳しく判明している6号窯跡では、窯跡の残存長は11m、最大幅は約2.2mで、床面傾斜角は11度前後であった。4号窯跡の南では平面隅丸方形の1号住居跡を、その南西側で1号工房跡を、3号窯跡西側で2号工房跡を検出している。工房跡からはロクロピットや粘土貯蔵土坑を確認した。 山隈窯跡では、九州大学の調査によると4基の窯跡が1号、4号、2号、3号の順で構築されたと考えられている。いずれも半地下式の構造を持つと考えられる。比較的構造が分かる1号窯跡では、焼成部の残存長は1.4m、幅は約1.7mである。1~4号窯跡を含む周囲約800㎡を磁気探査し、反応が認められた箇所の試掘調査によって、窯に伴う溝状遺構や灰原を確認し、窯跡の範囲を確定した。また、1号窯跡の南側では、斜面を切土して造り出した平坦面で、須恵器大甕の破片を被せた溝状遺構を検出した。 出土遺物は調査数の多い小隈窯跡で最も多い。1・2号窯跡及び2号工房跡では古墳時代中期前葉から中葉(5世紀前半)の加耶系初期須恵器が主体である。この時期に、朝鮮半島からの直接的な影響を受けた須恵器の生産が始まり、朝倉市池の上・古寺墳墓群等をはじめ九州北部に広く供給されたことが分かる。なお、同時期の近隣の須恵器窯跡として筑紫野市隈・西小田地区窯跡群が知られる。一方、3~6号窯及び1号工房跡では中期後葉(5世紀後半)の陶邑系須恵器が主体となることから、この時期に全国的な須恵器の定型化の影響を受けつつも新たな窯や工房を構築し、九州北部の中核的な須恵器窯として操業したことが分かった。山隈窯跡、八並窯跡の出土遺物は少ないが、採集資料にみられる甕・壺類口縁部や高杯裾端部の形態から、操業開始は小隈窯跡と概ね同時期であったと考えられる。 このように、朝倉須恵器窯跡では、窯跡及び国内最古級の須恵器工房によって我が国における須恵器生産開始期の状況を知ることができるとともに、その後、陶邑系須恵器生産を受容し定型化していく過程までが一遺跡で明らかとなる稀有な事例である。さらに、供給先である墓地や集落等との関係を通じ、須恵器の生産と流通の在り方を理解することで、当該地域の社会・政治体制や、朝鮮半島との交流を考えるうえで極めて重要な遺跡といえる。よって、内容が明らかとなった小隈窯跡・山隈窯跡を史跡に指定し保護を図ろうとするものである。