国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
筑豊炭田遺跡群 三井田川鉱業所伊田坑跡 目尾炭坑跡 旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所及び救護練習所模擬坑道
ふりがな
:
ちくほうたんでんいせきぐん みついたがわこうぎょうしょいたこうあと しゃかのおたんこうあと きゅうちくほうせきたんこうぎょうくみあいのおがたかいぎしょおよびきゅうごくんれんじょもぎこうどう
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
明治~昭和
年代
:
西暦
:
面積
:
49287.37 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
福岡県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
福岡県北部の遠賀(おんが)川流域に開発された,明治中期から昭和20年代にかけて,我が国最大の炭田であった筑豊炭田の遺跡群である。炭鉱経営は中央財閥,筑豊地方の有力者,小坑主によるものであった。筑豊炭田は明治30年(1897)には全国産出量の50%を超え,昭和15年(1940)を出炭量のピークとしてその後は漸減し,昭和48年(1973)までに閉鎖となった。三井田川鉱業所伊田坑跡は,筑豊最大規模を誇った炭坑跡で明治43年(1910)築の竪坑櫓1基と,炭坑節でも唄われた明治41年(1908)築の煉瓦煙突2基が残存し,竪坑の巻上機室や汽缶場の基礎などが確認された。目尾炭坑跡は杉山(すぎやま)徳(とく)三郎(さぶろう)が明治14年(1881)に筑豊で初めて蒸気機関による排水に成功した遠賀川沿岸の炭坑で,杉山が排水に成功した竪坑を覆うコンクリート製蓋や煙突基礎などを確認した。明治43年に完成した旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所には,筑豊の炭坑経営者たちが集まり,採炭制限や保安対策などについて議論した。同組合の救護練習所模擬坑道は,大正9年(1920)に設置された煉瓦造と鉄筋コンクリート造のアーチ型の練習坑道で,炭坑の深部掘削を背景とした爆発事故に対応して作られたものである。石炭業を採炭,運搬,労働環境など多岐の面より理解する上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
福岡県北部の遠賀(おんが)川流域に開発された,明治中期から昭和20年代にかけて,我が国最大の炭田であった筑豊炭田の遺跡群である。炭鉱経営は中央財閥,筑豊地方の有力者,小坑主によるものであった。筑豊炭田は明治30年(1897)には全国産出量の50%を超え,昭和15年(1940)を出炭量のピークとしてその後は漸減し,昭和48年(1973)までに閉鎖となった。三井田川鉱業所伊田坑跡は,筑豊最大規模を誇った炭坑跡で明治43年(1910)築の竪坑櫓1基と,炭坑節でも唄われた明治41年(1908)築の煉瓦煙突2基が残存し,竪坑の巻上機室や汽缶場の基礎などが確認された。目尾炭坑跡は杉山(すぎやま)徳(とく)三郎(さぶろう)が明治14年(1881)に筑豊で初めて蒸気機関による排水に成功した遠賀川沿岸の炭坑で,杉山が排水に成功した竪坑を覆うコンクリート製蓋や煙突基礎などを確認した。明治43年に完成した旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所には,筑豊の炭坑経営者たちが集まり,採炭制限や保安対策などについて議論した。同組合の救護練習所模擬坑道は,大正9年(1920)に設置された煉瓦造と鉄筋コンクリート造のアーチ型の練習坑道で,炭坑の深部掘削を背景とした爆発事故に対応して作られたものである。石炭業を採炭,運搬,労働環境など多岐の面より理解する上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
筑豊炭田遺跡群は、福岡県北部、旧筑前(ちくぜん)国四郡(遠賀(おんが)・鞍手(くらて)・嘉(か)麻(ま)・穂波(ほなみ))・旧豊前(ぶぜん)国田川郡(これら5郡を筑(ちく)豊(ほう)地域と呼ぶ)に位置し、かつ遠賀(おんが)川流域に南北46km、東西26kmにわたって開発された炭田遺跡群である。炭鉱開発が本格化した明治中期から第二次大戦中にかけて、わが国最大の炭田であった。 筑豊で採炭された石炭は、西日本を中心に供給され、鉄道・船舶の燃料や鉄鋼業、紡績業等の燃料として利用され、香港・上海でも使用された。炭鉱経営は三井、三菱、住友などの中央財閥によるものの他、筑豊御三家といわれる貝島(かいじま)、安川(やすかわ)、麻生(あそう)などの筑豊地方の有力者、小坑主によるものまで、最盛期は265鉱に達した。 筑豊の石炭は、18世紀中頃から塩田の燃料として利用されていたが、明治政府は明治6年に日本坑法を施行し、それに基づき明治7年には筑豊5郡で210の借区が誕生し、25万坪が許可された。明治19年には筑豊の借区は483借区、200万坪となった。明治政府は明治6年に三池炭鉱、同7年に高島炭鉱を官収したが、筑豊では官営は進まなかったので、福岡県では、石炭鉱業の改良発展のための施策を民間鉱業を軸としたものとした。小坑濫立と遠賀川による石炭運搬に使用された川艜(かわひらた)の統制のために明治18年に「筑前国豊前国石炭坑業組合」が発足し、明治26年には「筑豊石炭鉱業組合」と改称した。明治27年に日清戦争が始まると、日本海軍に石炭を供給したことで炭価が高騰し石炭市場が拡大した。そして、戦争終了後は極東に列強が進出すると、門司港から石炭が輸出されていき、明治30年には筑豊炭田は全国産出量の50%を超えた。その背景には蒸気機関による排水や、竪坑の巻上げなどの機械化があった。また、明治末期には地下200~300mに及ぶ竪坑が現れたが、竪坑が深部になると爆発事故がおきるようになり、筑豊石炭鉱業組合でも安全対策が大きな課題となった。昭和15年を出炭量のピークとしてその後は漸減し、昭和48年までに筑豊炭田は閉鎖となった。 福岡県教育委員会では、筑豊炭田の重要性に鑑み、平成22年から27年まで筑豊炭田遺跡群の悉皆調査を行った。調査対象の遺跡には、坑口そのものをあらわす炭坑、複数の坑口をもつ事業所、石炭を運搬した鉄道や川、石炭を取り扱う会社や組合、炭坑経営者の建物、ボタ山などがある。今回保護を図ろうとする遺跡は、このうち歴史的意義が深く、残存状況が良好な以下の3カ所の遺跡である。 三井田川鉱業所伊田坑跡は、筑豊炭田東南部の内陸部にあり、筑豊最大規模を誇った三井田川鉱業所の主力坑跡である。明治33年に三井鉱山が伊田斜坑を買収し、隣接した伊田竪坑(深さ、第一竪坑361m、第二竪坑362m)を明治42~43年に掘削し、日本三大竪坑の一つと称され、大正末期には三池炭鉱に次ぐ大炭鉱となった。エネルギー革命後の昭和39年に閉山した。閉山後にほとんどの炭鉱施設は撤去されたが、明治43年築の鉄骨造第一竪坑櫓1基と、炭坑節でも唄われた明治41年築の煉瓦煙突2基が残存する。平成21年から27年にかけて田川市教育委員会により発掘調査が行われ、竪坑の巻上機室や汽缶場の基礎などの地上遺構とかかわりのある遺構や、隣接する鉄道に石炭を排出した選炭場の基礎が確認された。 目尾炭坑跡は嘉穂盆地の北部にあり、隣接して遠賀川が流れている。明治5年に開坑し明治13年に杉山(すぎやま)徳(とく)三郎(さぶろう)が所有した。翌14年にスペシャルポンプを活用して筑豊で初めて蒸気機関による排水に成功し、明治18年には深さ180尺の竪坑の掘削に成功した。この成功によって筑豊に深い竪坑が展開していった。29年に古河市(ふるかわいち)兵衛(べえ)が目尾坑を買収し、36年には筑豊屈指の炭坑となったが、39年頃には採炭予定量の掘削を終えた。飯塚市教育委員会では平成21年から27年に発掘調査を行い、杉山が蒸気機関による排水に成功した竪坑を覆うコンクリート製蓋とその竪坑から出る排気を外に出すための扇風機の煉瓦積台座、円形や八角形の煙突基礎、鉄道の引き込み線などを確認した。 旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所は、先述の筑豊石炭鉱業組合が明治43年に石炭流通の中心地であった直方に作った会議所である。木造2階建て瓦葺の洋風建築で、2階が会議室であった。安川、麻生、貝島、伊藤をはじめとする筑豊の炭坑経営者たちが集まり、採炭制限や石炭カルテル、労働問題、保安対策、筑豊鉱山学校の建設などについて議論した。救護練習所模擬坑道は、筑豊石炭鉱業組合により明治45年に作られた木造の坑道に始まり、現存のものは大正9年に設置された、煉瓦造と鉄筋コンクリート造の部分、およびのちに付加されたプレキャスト板鉄骨造の部分があるアーチ型の練習坑道である。総延長105.9mあり、暖房設備や煙やガスを発生させる設備を併設する。炭坑の深部掘削を背景とした爆発事故に対応して作られ、昭和43年まで延べ4万5千人以上が救護練習を行った。平成28年に直方市教育委員会により調査が行われ、会議所の施工が鴻池(こうのいけ)忠(ちゅう)治郎(じろう)であることが明らかになり、詳細な図面が作成された。現在は直方市石炭記念館となっており、これら施設のほかに記念館別館などが建てられている。 以上のように筑豊炭田遺跡群は、わが国を代表する炭田である筑豊炭田の主要な遺跡から構成される遺跡群であり、石炭業を採炭、運搬、労働環境など多岐の面より理解するうえで重要である。よって史跡に指定し保護を図ろうとするものである。