国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
下藤キリシタン墓地
ふりがな
:
しもふじきりしたんぼち
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
戦国~江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
1487.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
七.墳墓及び碑
所在都道府県
:
大分県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
戦国末期から江戸時代に形成された,当時の下藤村に居住していた多数のキリシタンを埋葬する墓地である。大野川支流の野津(のつ)川左岸の尾根上に位置する。臼杵市教育委員会による発掘調査で南北35m,東西18mの範囲で66基のキリシタン墓,小規模な礎石建物,道路跡が確認された。墓は未加工の石を配置したものと中世石造物の転用材を配置したものがある。墓坑内からは鉄釘や頭骨が見つかり長方形の木棺墓であると判断され,伸展葬であったと考えられる。大友(おおとも)義(よし)鎮(しげ)が天正6年(1578)にキリシタンに改宗する前後から,豊後国野津でもイエズス会士によって布教がなされ,数千人のキリシタンが誕生していったと記録される。フロイスの『日本史』にはリアンは天正7年(1579)頃に自分の屋敷地に教会を建て,その上方の山にキリシタンの墓地を作ったと記されているが,検地帳や字図の分析からリアンの屋敷地の場所が下藤村内に推定されており,その西方の山にある本遺跡がリアンの作った墓地と考えられる。地上・地下遺構が良く残存しているキリシタン墓地であり,かつ,造立した人物や背景が明確な墓地として他に例がなく貴重であり,キリスト教受容のあり方を考える上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
戦国末期から江戸時代に形成された,当時の下藤村に居住していた多数のキリシタンを埋葬する墓地である。大野川支流の野津(のつ)川左岸の尾根上に位置する。臼杵市教育委員会による発掘調査で南北35m,東西18mの範囲で66基のキリシタン墓,小規模な礎石建物,道路跡が確認された。墓は未加工の石を配置したものと中世石造物の転用材を配置したものがある。墓坑内からは鉄釘や頭骨が見つかり長方形の木棺墓であると判断され,伸展葬であったと考えられる。大友(おおとも)義(よし)鎮(しげ)が天正6年(1578)にキリシタンに改宗する前後から,豊後国野津でもイエズス会士によって布教がなされ,数千人のキリシタンが誕生していったと記録される。フロイスの『日本史』にはリアンは天正7年(1579)頃に自分の屋敷地に教会を建て,その上方の山にキリシタンの墓地を作ったと記されているが,検地帳や字図の分析からリアンの屋敷地の場所が下藤村内に推定されており,その西方の山にある本遺跡がリアンの作った墓地と考えられる。地上・地下遺構が良く残存しているキリシタン墓地であり,かつ,造立した人物や背景が明確な墓地として他に例がなく貴重であり,キリスト教受容のあり方を考える上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
下藤キリシタン墓地は、大野川支流の野津(のつ)川左岸の標高約130mの広原台地東北隅の尾根上に位置する、戦国末期から江戸時代に形成された、当時の下藤村に居住していた多数のキリシタンを埋葬する墓地である。下藤村は明治8年に広原村・荒瀬村と合併して原村となっており、現在は下藤地区と呼ばれる。 下藤キリシタン墓地は、宝塔(ほうとう)・板碑(いたび)・五輪塔(ごりんとう)などの中世の石塔部材が散乱しており、昭和40年代まで造墓されていた下藤集落の共同墓地である。昭和31年に東側斜面裾部で、花十字文とギリシャクルスを妻面にあしらい、「常珎(じょうちん)」と記銘された半円柱状のキリシタン墓碑が見つかり、平成11年には石造十字架の一部とみられる「INRI(インリ)」銘石造物が発見され、キリシタン墓地である可能性が高まった。 平成22~27年にかけて臼杵市教育委員会による遺跡の内容確認を目的とした発掘調査が行われ、南北35m、東西18mの範囲で66基のキリシタン墓、小規模な礎石建物、道路跡が確認された。キリシタン墓は北にある未加工の石材を配石する一群と、南にある中世石造物の転用材を用いて配石する一群があり、南にある後者の一群が先に造られたと考えられる。また、配石上には切妻型の伏碑が敷設されていたものもあったと推測されるが、ほぼすべての墓坑で、伏碑が起こされて破砕されている。そして、地表下には平面形が長方形を呈した埋葬施設を設けている。墓坑内の発掘調査の成果によれば、長軸1.83m、短軸0.62~0.75mで、深さは0.84mをはかる。墓坑の底面は平坦で、鉄釘や頭骨が見つかっており、これらの検出位置からこの遺構が長方形の木棺墓であると判断された。高槻城跡(大阪府)や東京駅八重洲北口遺跡(東京都)、大友府内遺跡(大分県)などのこれまでのキリシタン墓の発掘調査の成果から、キリシタンは伸展葬であったと考えられており、下藤の場合も伸展葬であると考えられる。 下藤キリシタン墓地のある野津には、近代まで、豊後と日向を結ぶ日向(ひゅうが)街道(かいどう)が通っていた。この日向街道沿いには寺小路磨(てらこうじま)崖(がい)クルスや神野家(かみのけ)墓地などキリシタン遺跡が点在している。野津は16世紀には豊後国守護大友氏の直轄領となっており、隠居した大友(おおとも)義(よし)鎮(しげ)が天正6年(1578)にキリシタンに改宗して以降、野津でもイエズス会士によって布教がなされ、イエズス会士によれば、1586年には6~7000人のキリシタンが野津に存在したと推測されている。慶長2年(1597)作成の『豊後国大野郡野津院御検地帳』(大分県立先哲史料館蔵)の下藤村の項には、下藤村で最も大きな屋敷地を持ち、村高の約二割を持つ「理(り)庵(あん)」という人物がいたことが分かるが、この人物は『1579年度日本年報』(ローマ・イエズス会文書館蔵)に「日本全体の最良のキリスト教徒」とイエズス会士に呼ばれた「Leão(リアン)」と同一人物と考えられる。また、フロイスの『日本史』によれば、このリアンは天正7年(1579)頃に自分の屋敷地に教会を建て、その上方の山にキリシタンを埋葬するため広くよく整った墓地を作ったと記されている。先述の検地帳にある「理庵」の屋敷地のあった地名は現存しないものの、下藤村のほかの人物の屋敷地の地名が明治21年の下藤村北部の字図にあることから、「理庵」の屋敷地は下藤村北部にあったと推測され、その西方の山にある下藤キリシタン墓地はリアンの作った墓地であると考えられる。 その後、天正14年(1586)に島津軍が臼杵に侵攻すると、野津ではリアンがキリシタン3千名を鍋田城に避難させたといわれている。天正15年(1587)に豊臣秀吉が伴天連(ばてれん)追放令をだすと、大友(おおとも)義(よし)統(むね)は豊後国内でキリシタンであることを禁じ、翌年にはキリシタンの弾圧が行われた。そして先述の慶長2年(1597)の検地帳を最後にリアンの記述は見えなくなる。その後、下藤村の人々は、寛保3年(1743)の紀年銘をもつ三界万霊塔がキリシタン墓に隣接してあることから、遅くとも18世紀半ばにはキリシタン墓を避けるように仏教墓をその周囲に配置していったとみられる。 以上のように、下藤キリシタン墓地は、地上・地下遺構が良く残存しているキリシタン墓地であり、かつ、造立した人物や背景が明確な墓地として他に例がなく貴重である。そして、キリスト教受容のあり方や、キリシタン墓の変遷を考える上で重要である。よって史跡に指定し保護を図ろうとするものである。