国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
弁之御嶽
ふりがな
:
びんぬうたき
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
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面積
:
43613.09 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
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指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡,八.旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類
所在都道府県
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沖縄県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
琉球王国の時代,国王の健康や国家安穏の祈願等,国家祭祀の聖域として位置付けられ,国王自らの参拝や,代参が行われた拝所の一つである。弁ヶ嶽(べんがだけ)ともいい,那覇市首里の東端,首里(しゅり)城跡(じょうあと)の東方約1㎞にある標高165.6mの丘陵に所在する。東西に走る道路を境に北側の大嶽(うふたき)と南側の小嶽(こたき)に分かれる。「神仙来賁降遊之霊地(しんせんらいひこうゆうのれいち)」として,国王から民衆に至るまで「泰山北斗」のように仰ぎ尊び,多くの人々が参詣する御嶽とされた。正徳14年(1519)には,後に沖縄戦で大破する石門が建立され(『球(きゅう)陽(よう)』),嘉靖22年(1543)には参道を石敷道に改修し,沿道に松を植える整備が行われた(『国王頌(こくおうしょう)徳(とく)碑(ひ)』)。大嶽の神名は,「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」,小嶽の神名は「天子(てだこ)」とされる(『琉球(りゅうきゅう)国(こく)由来記(ゆらいき)』)。小嶽には「天子」を拝む御拝所があり,その側には斎場(せいふぁ)御嶽(うたき)の遥拝所も設けられていた。18世紀代には首里城の風水上重要な場所であると認識されて松の植樹が行われ,「冕嶽積翠(べんがくせきすい)」と称される景勝地ともなった。平成25年度には那覇市が記録に残る大嶽の拝殿跡を発掘して石敷遺構を検出する等,遺構が良好に遺存することを確認した。琉球における祭祀の在り方と,その歴史的変遷を理解する上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
琉球王国の時代,国王の健康や国家安穏の祈願等,国家祭祀の聖域として位置付けられ,国王自らの参拝や,代参が行われた拝所の一つである。弁ヶ嶽(べんがだけ)ともいい,那覇市首里の東端,首里(しゅり)城跡(じょうあと)の東方約1㎞にある標高165.6mの丘陵に所在する。東西に走る道路を境に北側の大嶽(うふたき)と南側の小嶽(こたき)に分かれる。「神仙来賁降遊之霊地(しんせんらいひこうゆうのれいち)」として,国王から民衆に至るまで「泰山北斗」のように仰ぎ尊び,多くの人々が参詣する御嶽とされた。正徳14年(1519)には,後に沖縄戦で大破する石門が建立され(『球(きゅう)陽(よう)』),嘉靖22年(1543)には参道を石敷道に改修し,沿道に松を植える整備が行われた(『国王頌(こくおうしょう)徳(とく)碑(ひ)』)。大嶽の神名は,「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」,小嶽の神名は「天子(てだこ)」とされる(『琉球(りゅうきゅう)国(こく)由来記(ゆらいき)』)。小嶽には「天子」を拝む御拝所があり,その側には斎場(せいふぁ)御嶽(うたき)の遥拝所も設けられていた。18世紀代には首里城の風水上重要な場所であると認識されて松の植樹が行われ,「冕嶽積翠(べんがくせきすい)」と称される景勝地ともなった。平成25年度には那覇市が記録に残る大嶽の拝殿跡を発掘して石敷遺構を検出する等,遺構が良好に遺存することを確認した。琉球における祭祀の在り方と,その歴史的変遷を理解する上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
弁之御嶽は、琉球王国の時代、国王の健康や国家安穏の祈願等、国家祭祀の聖域として位置づけられた拝所の一つである。弁ヶ嶽(べんがだけ)(弁ヶ岳)ともいい、那覇市首里の東端、首里(しゅり)城跡(じょうあと)の東方約1.3㎞にある標高165.5mの丘陵である。東西に走る道路を境に北側に大嶽(うふたき)、南側に小嶽(こたき)がある。 『国王頌(こくおうしょう)徳(とく)碑(ひ)』(かたのはな碑とも。嘉靖22年<1543>)によれば、弁之御嶽は「へんのたけ」「冕(べん)嶽(がく)」と表記され、「神仙来賁降遊之霊地(しんせんらいひこうゆうのれいち)」として、国王から民衆に至るまで「泰山(たいざん)北斗(ほくと)」のように仰ぎ尊び、多くの人々が参詣する御嶽(うたき)とされていた。しかし首里から御嶽への参道は整備されていないことから、同年、尚(しょう)清(せい)王(おう)は参道を石敷道に改修し、沿道に松を植える等の整備を行ったとされる。是に先立つ正徳14年(1519)、石垣が造営され、大嶽の前に石門が建立されたという(『球(きゅう)陽(よう)』乾隆10年<1745>)。この石門が沖縄戦で大破するまで現存していた「弁嶽(冕嶽)石門」(石造単拱平唐門(せきぞうたんきょうひらからもん)、左右石牆付属(さゆうせきしょうふぞく)。昭和13年<1938>国宝保存法により国宝に指定)である。 『琉球(りゅうきゅう)国(こく)由来記(ゆらいき)』(康煕52年<1713>)によれば、「冕大嶽」の神名は、「玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」、「同小嶽ノ御イベ」の神名は「天子(てだこ)」であり、二箇所は三平等(みふぃら)の大(おお)あむしられ(高級神女)の一人である首里大阿武志良礼(あむしられ)の拝所であったことがわかる。小嶽には「天子」を拝む御拝所があり、その前には国王が斎場(せいふぁ)御嶽(うたき)を遥拝する「斎場御嶽望御祭所(のぞみおまつりどころ)」が設けられていた。弁之御嶽は国王が自身の健康、子孫繁栄、国家安穏を祈願するため正月・5月・9月の吉日、自ら参詣する5箇所の一つと位置づけられていた。国王の弁之御嶽への参詣は、尚(しょう)賢(けん)王(おう)の順治元年(1644)正月に始まったとされる(同書「王城之公事(おうじょうのくーじ)」)。雍正5年(1727)には、国王の長寿と子孫繁栄、五穀豊穣を祈願して各地の御嶽を拝む百人御物参(ももそおものまいり)に際して、弁之御嶽は首里城歓会門(かんかいもん)側にある園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)とともにその起点と定められ、以後も国家祭祀の空間として重要な地位を占めるようになり、18世紀後半以降は王国の国難に際して行われる国王の代参地の一つとなった。国王による参拝祈願の儀式の様子は、『図帳(ずちょう)』勢頭方(しーどぅほう)・当方(あたいほう)(道光19年<1839>写。沖縄県立芸術大学蔵)に詳しい。18世紀代には首里城の風水上重要な場所であると認識され、松の植樹が行われ、「冕嶽積翠(べんがくせきすい)」と称される景勝地でもあった。「首里(しゅり)古地図(こちず)」(18世紀)には、石垣に囲まれた大嶽・小嶽、大嶽の石門、鬱蒼とした樹林が描写されている。王国末期の光緒元年(1875)成立の『聞得大君御殿並御城規式之御次第(きこえおおきみうどぅんならびにうぐすくおぎしきのおんしだい)』において、初めて琉球開闢(かいびゃく)神話のなかに弁之御嶽が位置づけられるようになった。そのほか、雨乞儀礼が行われたり、航海の安全を祈る信仰の対象にもなっていたことが知られる。 弁之御嶽は、琉球処分によって王国が解体されたことで、国家的祭祀の場として役割は終えることとなったが、その後今日に至るまで、地域の住民による信仰の場として機能している。沖縄戦によって石門は破壊され、深い樹林で覆われていた峰は禿げ山と化したが、現在は樹林も回復し、往時の姿を取り戻しつつある。昭和31年(1956)琉球政府によって史跡に、日本復帰後の昭和47年(1972)には沖縄県によって史跡に指定され、都市公園の指定も受けている。 那覇市では、弁之御嶽の歴史的価値を明らかにするため、平成25年~29年度にかけて文献調査、発掘調査等を実施した。御嶽を東西に走る道路は元来の参詣道であり、その北側に大嶽、南側に小嶽がある。大嶽には戦後再建の石門がある。前庭部分には拝殿があったことが記録から分かっているが、平成25年度に当該部分の発掘調査を実施したところ、拝殿に伴うものと考えられる石敷遺構を検出した。石門の奥、山頂に至る途中と山頂部に拝所が配され、前庭部西側には井戸が配されている。小嶽では、御拝所・斎場御嶽望御祭所が現在もほぼ『図帳』どおりの位置に残されているが、戦後の改修をうけているものと考えられる。 このように、弁之御嶽は、琉球において古くから霊域として崇められ、王府により国家祭祀の場として位置づけられた聖域である。沖縄戦で大きな被害を受けたが、丘陵の樹林も再生して往時の霊域を偲ぶことができ、記録等にみえる拝殿に関わると思われる遺構も良好に遺存することが確認できた。琉球における祭祀の在り方とその歴史的変遷を理解する上で重要であることから、史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。