国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
白山公園
ふりがな
:
はくさんこうえん
解説表示▶
種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
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面積
:
16959.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
:
指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
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新潟県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
新潟市の市街地中心部に位置する。新潟総鎮守白山神社に隣接し,元々は白山神社の境内地であった。
明治5年(1872)に県令として着任した楠(くす)本(もと)正(まさ)隆(たか)によって造営が開始されたこの地は,信濃川越しに弥(や)彦(ひこ)山(やま)や角(かく)田(だ)山(やま),越後山脈を望む景勝地であり,以前から白山(はくさん)祭(まつり)などでにぎわう新潟町民の行楽の場でもあった。明治6年(1873)に国内最初の都市公園の一つとして認可され,人々の憩いの場,集会等の場として利用されてきた。
東に「瓢(ひょう)箪(たん)池(いけ)」,西に「蓮(はす)池(いけ)」が造られ,瓢箪池と蓮池の間には明治11年(1878)に明治天皇の新潟県巡幸に合わせて造られた「美(み)由(ゆ)岐(き)賀(が)岡(おか)」という築山がある。随所に景石や石燈籠を設置しているほか,造営の由来を示す「新潟遊園碑」をはじめ,多くの石碑が建つ。また,マツ類,ウメを中心に,ツツジ類,フジ等の樹木が植えられている。
白山公園は明治初期に造られ,その後空間構成を大きく変えることなく,現在まで維持されており,日本公園史における学術上の価値,観賞上の価値が高いことから,名勝に指定し保護するものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
新潟市の市街地中心部に位置する。新潟総鎮守白山神社に隣接し,元々は白山神社の境内地であった。 明治5年(1872)に県令として着任した楠(くす)本(もと)正(まさ)隆(たか)によって造営が開始されたこの地は,信濃川越しに弥(や)彦(ひこ)山(やま)や角(かく)田(だ)山(やま),越後山脈を望む景勝地であり,以前から白山(はくさん)祭(まつり)などでにぎわう新潟町民の行楽の場でもあった。明治6年(1873)に国内最初の都市公園の一つとして認可され,人々の憩いの場,集会等の場として利用されてきた。 東に「瓢(ひょう)箪(たん)池(いけ)」,西に「蓮(はす)池(いけ)」が造られ,瓢箪池と蓮池の間には明治11年(1878)に明治天皇の新潟県巡幸に合わせて造られた「美(み)由(ゆ)岐(き)賀(が)岡(おか)」という築山がある。随所に景石や石燈籠を設置しているほか,造営の由来を示す「新潟遊園碑」をはじめ,多くの石碑が建つ。また,マツ類,ウメを中心に,ツツジ類,フジ等の樹木が植えられている。 白山公園は明治初期に造られ,その後空間構成を大きく変えることなく,現在まで維持されており,日本公園史における学術上の価値,観賞上の価値が高いことから,名勝に指定し保護するものである。
詳細解説▶
詳細解説
白山公園は新潟市の市街地中心部に位置する。新潟総鎮守白山神社に隣接し、元々は白山神社の境内地であった。 白山神社は当初は現在と異なる場所にあったと伝わる。詳細についてはよくわかっていないが、越後国を描いた正保2年(1645)の国絵図に「白山(はくさん)島(じま)」という島が描かれていることから、17世紀半ばには白山島に移っていたと考えられている。当時の境内地は信濃川の河口にできた白山島の中州全域で、対岸に新潟町があった。江戸時代の新潟は信濃川河口の湊町として発展したが、17世紀の中頃には新潟町と白山島の間に土砂が堆積し、湊の機能が維持できなくなったため、明暦元年(1655)に新潟町は白山島とその隣の寄居島に移転した。新潟町の移転により白山神社の境内地は新潟町の南端部分のみとなったが、敷地が信濃川に面していたことから、回米の保管のために町人が神社から土地を借りて蔵を建て、境内地には「島蔵(しまぐら)」と呼ばれたそれらの蔵が並んでいた。 明治5年(1872)に県令として着任した楠本(くすもと)正隆(まさたか)は、前年の上知によって官有地となった白山神社旧境内地に公園を造営することを決める。この地は信濃川に面し、川越しに弥彦山(やひこやま)や角田山(かくだやま)、越後山脈を望む景勝地で、白山(はくさん)祭(まつり)などでにぎわう新潟町民の行楽の場でもあった。島蔵や境内社(末社)等を撤去した後、「白山(はくざん)遊歩場(ゆうほじょう)」として造成するための工事が開始された。施工にあたっては、新潟の実業家である荒川(あらかわ)太(たい)二(じ)が監督に当たり、彼の出身地である新潟県三条町の庭師が携わったと伝わるが、その詳細についてはよくわかっていない。 明治6年(1873)1月に太政官布告第16号が出され、公園の設置が奨励されると、全国の著名な寺社の旧境内地等が公園となった。建設中の「白山遊歩場」も申請により、国内最初の都市公園の一つとして認可された。この時、白山公園以外の公園は、基本的に旧来の寺社境内地をそのまま公園としたものであったが、白山公園はこの時期に新たに造成工事を行って整備したものであり、これは白山公園の大きな特徴と言える。 明治6年(1873)に公園の入口に建てられた「新潟(にいがた)遊園(ゆうえん)碑(ひ)」には、楠本による公園造成はオランダの公園に倣ったもので、県民の心身を壮健にするものであると刻まれている。この碑に示されているように、白山公園は、開設当初は「新潟遊園」と呼ばれた。やがて「新潟公園」もしくは「白山公園」の呼称が用いられるようになったが、その後「白山公園」が一般的となり、大正5年(1916)の新潟市公園条例制定の頃には、正式に「白山公園」となった。 造営は明治5年(1872)に始まったが、完成時期ははっきりしていない。明治8年(1875)12月付けの、楠本の後任の県令である永(なが)山盛(やまもり)輝(てる)への事務引継書には「現在工事はほぼ終わった」とあるが、その後も整備工事は続いていたようである。 具体的な工事としては、築山及び園池の整備、樹木や花卉(かき)の植栽、庭石及び石燈籠の設置などが行われ、当時の記録には、亭2つ、庭石590個、石灯籠24基、ランプ6基等の整備のほか、古松85本、稚(わか)松(まつ)1,050本等を植栽したとある。その後、明治11年(1878)に明治天皇の新潟県巡幸が発表されると、後に「美由岐賀(みゆきが)岡(おか)」と呼ばれる築山が蓮池の東の端に設けられた。この築山は川縁に造られ、そこからは信濃川とその向こうの弥彦山や角田山を望むことができた。また、公園の入口にあった「新潟遊園碑」をそこに移して野立所を建てた。地割の主要な部分は、この頃完成したと考えられ、その後現在まで大きく変わることなく維持されている。 県民の心身を壮健にする目的で造られた白山公園であったが、やがて集会の場としても使われるようになる。明治27年(1894)には明治天皇銀婚祝典、同29年及び同37年には、それぞれ遼東半島還付紀念大会、旅順戦勝祝勝会が開かれ、その後も様々な集会や式典等が行われた。 地割の主要な部分は大きく変化していないものの、時代を経るにつれ変わった部分もある。白山公園開設以来全域が公園地となっていた白山神社旧境内地であるが、大正9年(1920)に公園地と神社境内地が分けられた。昭和初期には園内に猿や熊、鳥などの動物小屋が置かれ、昭和7年には蓮池にラジオ塔が設置された。また、大河津分(おおこうづぶん)水(すい)通水に伴って破堤の心配がなくなると、昭和9年以降、公園に接する信濃川の岸の埋め立てが進み、運動場が建設された。これにより公園と信濃川の景観の接続性は断たれることになった。戦中も戦争関係の集会等に利用された白山公園は、戦後、戦災復興の博覧会場となり、また戦争中に撤去された熊などの動物舎が再び園内に並んだ。昭和39年の新潟地震では白山公園においても被害があった。その後動物舎を減らし、滝を設置するなどの改修工事が行われた。 白山公園は造営以来これまで何度かその範囲を拡大してきた。拡大した部分は「新公園」と呼ばれ、旧来の区域と区別されている。周囲は都市化が進み、かつて公園から見えた外部の景観を見ることはできなくなったが、開設当初に造成された旧来の区域は往時から大きな改修を受けていない。敷地は東西に長く、東に「瓢(ひょう)箪(たん)池(いけ)」、西に「蓮(はす)池(いけ)」が造られている。瓢箪池と蓮池の間には築山「美(み)由(ゆ)岐(き)賀(が)岡(おか)」が設けられ、園内には園路がめぐる。また随所に景石や石燈籠を設置しているほか、造営の由来を示す「新潟遊園碑」をはじめ、多くの石碑が建つ。植栽については、マツ類、ウメを中心に、サクラ類等の高木のほか、ツツジ類等の低木、フジ等様々な植物が植えられている。 以上のように、白山公園は、明治初期に造られ、その後空間構成を大きく変えることなく、現在まで維持されている。日本公園史における学術上の価値、観賞上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。