国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
宇治山
ふりがな
:
うじやま
解説表示▶
種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
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面積
:
257030.9 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
189
特別区分
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指定年月日
:
2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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十.山岳、丘陵、高原、平原、河川
所在都道府県
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京都府
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
宇治川が峡谷から出て氾濫原低地を形成する地域は,往古より交通の要衝をなし,平安時代に貴顕の別業が数多営まれて以来,優れた名勝地として広く知られてきた。宇治山は,その谷口を巡って峰を連ねる仏(ぶっ)徳(とく)山(さん),朝日山(あさひやま)などを含む丘陵地の総称である。
古来より数多くの秀歌が詠み継がれ,『古今和歌集』(10世紀初頭)に収められ,『小倉百人一首』にも選ばれた喜(き)撰(せん)法師の有名な「わが庵は都のたつみ然(し)かぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」をはじめとして,『新古今和歌集』(13世紀初頭)に収められた藤原公(きん)実(ざね)の「ふもとをば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな」など,名勝地たる基層を育んできた。14世紀以降には紀行文・地誌等にも数多く取り上げられ,江戸時代後期から近代にかけては,『宇治名所古跡之繪圖』(江戸末期)などに見られるように,北西方から宇治橋を左中ほど手前に,平等院を右下に宇治山を鳥瞰する図郭で紹介されることが広く普及し,名勝地たる宇治の枢要を成した。
そのうち,今般は,宇治川右岸の仏徳山,朝日山,二子山に,興(こう)聖(しょう)寺(じ),宇(う)治(じ)上(がみ)神(じん)社(じゃ),宇(う)治(じ)神(じん)社(じゃ),恵(え)心(しん)院(いん)の境内地などを含む範囲を名勝に指定し保護するものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
宇治川が峡谷から出て氾濫原低地を形成する地域は,往古より交通の要衝をなし,平安時代に貴顕の別業が数多営まれて以来,優れた名勝地として広く知られてきた。宇治山は,その谷口を巡って峰を連ねる仏(ぶっ)徳(とく)山(さん),朝日山(あさひやま)などを含む丘陵地の総称である。 古来より数多くの秀歌が詠み継がれ,『古今和歌集』(10世紀初頭)に収められ,『小倉百人一首』にも選ばれた喜(き)撰(せん)法師の有名な「わが庵は都のたつみ然(し)かぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」をはじめとして,『新古今和歌集』(13世紀初頭)に収められた藤原公(きん)実(ざね)の「ふもとをば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな」など,名勝地たる基層を育んできた。14世紀以降には紀行文・地誌等にも数多く取り上げられ,江戸時代後期から近代にかけては,『宇治名所古跡之繪圖』(江戸末期)などに見られるように,北西方から宇治橋を左中ほど手前に,平等院を右下に宇治山を鳥瞰する図郭で紹介されることが広く普及し,名勝地たる宇治の枢要を成した。 そのうち,今般は,宇治川右岸の仏徳山,朝日山,二子山に,興(こう)聖(しょう)寺(じ),宇(う)治(じ)上(がみ)神(じん)社(じゃ),宇(う)治(じ)神(じん)社(じゃ),恵(え)心(しん)院(いん)の境内地などを含む範囲を名勝に指定し保護するものである。
詳細解説▶
詳細解説
琵琶湖から発する瀬田川は、湖南の山々を縫って峡谷を刻み、宇治川となって山(やま)城(しろ)盆地に北上し、木津川、桂川と合流して淀川へと続く。この宇治川が頁(けつ)岩(がん)・チャート・砂岩などから成る三(み)室(むろ)戸(ど)層と天(あま)ヶ(が)瀬(せ)層に刻んだ峡谷から出て氾濫原低地を形成する地域は、往古より交通の要衝を成し、平安時代に貴顕の別業が数多営まれて以来、優れた名勝地として広く知られてきた。宇治山は、その谷口を巡って峰を連ねる仏(ぶっ)徳(とく)山(さん)、朝日山(あさひやま)、大平山(おおひらやま)、槇尾(まきのお)山(やま)などを含む丘陵地の総称である。 そうした宇治山には古来より数々の秀歌が詠み継がれ、『古今和歌集』(10世紀初頭)に収められて、『小倉百人一首』(13世紀前半)にも選ばれた喜撰(きせん)法師の有名な「わが庵(いお)は都のたつみ然(し)かぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」をはじめとして、名勝地たる基層を育んできた。なかでも、『新古今和歌集』(13世紀初頭)に収められた藤原公(きん)実(ざね)の「ふもとをば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな」や、『源氏物語』(寛弘5年〈1008〉)宇(う)治(じ)十(じゅう)帖(じょう)の最初、橋(はし)姫(ひめ)の「朝ぼらけ家路も見えず尋(たずね)こし槇(まき)のを山は霧こめてけり」では、宇治川の川霧と朝日山、槇尾山が織り成す優れた情景が描き出されている。14世紀以降には紀行文・地誌などにも多く取り上げられ、江戸時代後期から近代にかけては、『宇治名所古跡之繪圖』(江戸末期)などに見られるように、北西方から宇治橋を左中ほど手前に、平等院を右下に配置して、宇治山を鳥瞰する構図で紹介されることが広く普及した。幾多の盛衰を経てこの地勢に育まれた風致景観は、今日、宇治の名勝地たる枢要を成している。 そのうち、今般は、宇治川右岸の仏徳山、朝日山、二(ふた)子(ご)山(やま)に、興(こう)聖(しょう)寺(じ)、宇(う)治(じ)上(がみ)神(じん)社(じゃ)、宇(う)治(じ)神(じん)社(じゃ)、恵(え)心(しん)院(いん)の境内地などを含む範囲を保護しようとするものである。 仏徳山(標高131.8m)は宇治山において最高峰を占め、その南東に朝日山の小丘を連ね、古くはこれらを合わせて朝日山と呼ばれていたものと考えられている。その名の由来を成す山号を有する仏徳山興聖寺は、鎌倉時代初期に曹洞宗の開祖・道元によって開かれたと伝えるが、一時廃絶し、仏徳山の南、朝日山の南西の中腹に現在まで継がれる堂宇を再興したのは慶安2年(1649)の法灯である。宇治川河畔の四足石柱門を潜り、江戸時代以来、ヤマブキ、ツツジ類、カエデ類の色づく名所として知られる琴(こと)坂(さか)(全長200m余りの参道)を登って龍宮造の山門に至る。境内は仏徳山の山容に包まれ、本堂前には配石して庭園を成し、朝日山山上の観音堂からの眺望は、宇治川までをも含む広大な地割が意識されていたことを窺わせる。 仏徳山の北西方に伸びる丘陵上には古墳時代中期に属する直径40m余りの円墳2基が成す2つの高まりから二子山と呼ばれ、宇治山に一連の風致景観を成している。これらの墳丘からは多彩な副葬品などが出土しており、少なくとも5世紀以降この地域が要衝であったことを示している。仏徳山の西麓には、菟道(うじの)稚(わき)郎(いらつ)子(こ)とその兄・仁徳天皇、2人の父・応神天皇の三柱を祭神とする宇治上神社が鎮座する。平安時代後期に造営され、現存最古の神社建築と言われる本殿は一間社流造の社殿3棟を一つの屋根で覆い、左右本殿の蟇(かえる)股(また)は古様を見せて境内の由緒を伝える。宇治神社二座として江戸時代まで宇治上神社と一体であった宇治神社は宇治川河畔に位置し、鎌倉時代建築の本殿は三間社流造で菟道稚郎子一柱を祭神とし、旧宇治郷の産(うぶ)土(すな)神(がみ)でもある。宇治神社の南東方、興聖寺の西方の河岸段丘上には朝(あさ)日(ひ)山(ざん)恵心院があり、開山は弘法大師による龍泉寺と伝えられ、宇治十帖で入水した浮(うき)舟(ふね)を救った横川(よかわ)の僧都(そうづ)に準えられた源(げん)信(しん)によって寛弘2年(1005)に再興されたが、中世には兵火により再び衰亡し、いまは延宝4年(1676)に建立された本堂が縁を伝えている。 こうした数々の古刹の存在は、茶業の発展とも相俟って、特に江戸時代後期以降、宇治の旅籠や茶屋の発展を促して名勝地の素地を形成した。近代においては、鉄道が敷設され著名な観光地として定着するとともに、多くの工場が誘致され、宇治川電気株式会社が京阪地域への電力供給のため、大正2年(1913)、仏徳山の中腹に宇治水力発電所を設けた。さらに戦後の高度成長期には京阪地域通勤圏の住宅開発が進みながらも、今日に至るまで、宇治山の風致景観は良好に維持されてきた。 以上のように、宇治山は、古くから数多くの秀歌に詠まれ、特に江戸時代以来広く親しまれてきた名所を成すとともに、宇治の千年以上にわたる所縁を刻む風致景観であり、連担する丘陵の山容は古刹や河畔の風情と相まって観賞上の価値が高いことから、名勝に指定して保護するものである。