国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
中山仙境(夷谷)
ふりがな
:
なかやませんきょう(えびすだに)
解説表示▶
種別1
:
名勝
種別2
:
時代
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年代
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西暦
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面積
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1642341.93 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
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189
特別区分
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指定年月日
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2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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五.岩石、洞穴,十一.展望地点
所在都道府県
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大分県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
国東半島の北西部,北に向かって流れる竹田川の中流域に所在し,東(ひがし)夷(えびす)と西(にし)夷(えびす)の2つの谷からなる一帯の地域の総称で,その間にある独特な岩峰群からなる丘陵は中(なか)山(やま)仙(せん)境(きょう)と呼ばれている。
12世紀に六郷山寺院群の中山本寺(なかやまほんじ)のひとつ夷(えびす)石(いわ)屋(や)の広大な境域として拓かれたこの地域は,江戸時代初期には衰微したが,18世紀以降,地元民の尽力によって回復し,文政2年(1819)には国学者・高(たか)井(い)八(やつ)穂(ほ)が8つの優れた情景を見出し,和歌を添え「夷谷八景」を称えた。
中山仙境の風致景観は,尾根線上に連なる岩峰群によって特徴付けられ,最高所となる高(たか)城(じょう)の頂部からは,岩林ともいうべき風景を周囲に臨み,遠く北東方には周防灘をも一眸に収め,展望の枢要を成す。東夷には,夷(えびす)山(さん)霊(れい)仙(せん)寺(じ),夷山実(じっ)相(そう)院(いん),六(ろく)所(しょ)神(じん)社(じゃ)の古刹が連担し,西夷には,線(せん)彫(ぼり)板(いた)碑(び)や梅ノ木磨崖仏などが中世以来の夷谷の信仰を伝える。東夷・西夷ともに,大きく縦に割れ目の入った兄(きょう)弟(だい)割(わり)石(いし)と呼ばれる巨石があり,中山仙境を挟んで相互の強い結び付きを窺わせる。
古代以来の夷石屋に起源し,屹立した岩峰群の連なりは東夷と西夷の双方に臨んで優れた風致景観を固有に特徴付けているものであり,名勝に指定し保護するものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
国東半島の北西部,北に向かって流れる竹田川の中流域に所在し,東(ひがし)夷(えびす)と西(にし)夷(えびす)の2つの谷からなる一帯の地域の総称で,その間にある独特な岩峰群からなる丘陵は中(なか)山(やま)仙(せん)境(きょう)と呼ばれている。 12世紀に六郷山寺院群の中山本寺(なかやまほんじ)のひとつ夷(えびす)石(いわ)屋(や)の広大な境域として拓かれたこの地域は,江戸時代初期には衰微したが,18世紀以降,地元民の尽力によって回復し,文政2年(1819)には国学者・高(たか)井(い)八(やつ)穂(ほ)が8つの優れた情景を見出し,和歌を添え「夷谷八景」を称えた。 中山仙境の風致景観は,尾根線上に連なる岩峰群によって特徴付けられ,最高所となる高(たか)城(じょう)の頂部からは,岩林ともいうべき風景を周囲に臨み,遠く北東方には周防灘をも一眸に収め,展望の枢要を成す。東夷には,夷(えびす)山(さん)霊(れい)仙(せん)寺(じ),夷山実(じっ)相(そう)院(いん),六(ろく)所(しょ)神(じん)社(じゃ)の古刹が連担し,西夷には,線(せん)彫(ぼり)板(いた)碑(び)や梅ノ木磨崖仏などが中世以来の夷谷の信仰を伝える。東夷・西夷ともに,大きく縦に割れ目の入った兄(きょう)弟(だい)割(わり)石(いし)と呼ばれる巨石があり,中山仙境を挟んで相互の強い結び付きを窺わせる。 古代以来の夷石屋に起源し,屹立した岩峰群の連なりは東夷と西夷の双方に臨んで優れた風致景観を固有に特徴付けているものであり,名勝に指定し保護するものである。
詳細解説▶
詳細解説
夷谷は、国東半島の北西部、北に向かって流れる竹田川の中流域に所在し、東(ひがし)夷(えびす)と西(にし)夷(えびす)の2つの谷から成る一帯の地域の総称である。東夷と西夷の間には岩塊から成る丘陵があって、耶馬渓層凝灰角礫岩の風化と侵食によって形成された独特な岩峰群は、イブキシモツケ―イワヒバ群落やイワシデ群落などの植生を伴って四季を通じ固有の風致景観を呈している。この岩峰群が織り成す山容は、今日、中山仙境と呼ばれている。 長(なが)小(お)野(の)村の庄屋に伝えられてきた『余(よ)瀬(せ)文書』に含まれる「僧(そう)行(ぎょう)源(げん)解(げ)案(あん)」(長承4年〈1135〉)には、平安時代におけるこの地域に樹叢が深く繁り、人跡が絶える土地柄であったことが記されている。その様子を「大(だい)魔(ま)所(しょ)」と名付けた行源をはじめとする住僧たちは、幾多の苦労を重ねて、信仰の拠点である「坊」と「坊(ぼう)集(しゅう)落(らく)」(住僧の居住地)、そして、その生活基盤を支えるため狭隘な土地に「払(はらい)」(小規模な耕地)を少しずつ整え、六郷山寺院群の中山本寺のひとつ「夷(えびす)石(いわ)屋(や)」の広大な境域を切り拓いた。それらの坊や払の所在は現在の地名にも数多く窺うことができる。 また、東夷において平安時代以来の木造仏や磨崖仏を伝える霊(れい)仙(せん)寺(じ)、実(じっ)相(そう)院(いん)の境内地に並ぶ六(ろく)所(しょ)神(じん)社(じゃ)の本殿が鎮座する大きな岩陰には講堂跡に比定されるべき礎石群などが遺存し、中世において、この場所が夷石屋の中核を成していたことを示している。戦国時代になると、大友氏の重臣で屋(や)山(やま)の院主や六郷山別当職を務めた吉(よし)弘(ひろ)氏の支配が及び、夷石屋は手厚く庇護された。江戸時代初頭には国東半島の支配が分割され、夷石屋も、小倉藩、杵築藩の領有を受けた後、一時天領ともなり、正徳2年(1712)には延岡藩の飛び地預かりとなったが、いずれも夷石屋への関心は薄く、往時の隆盛は衰えた。その一方で、地元民の尽力により、東夷に六郷山寺院群の系譜を引いて、宝永7年(1710)には霊仙寺が、享保2年(1717)にはその隣に実相院が、今日に続くかたちでそれぞれ境内地を整えられた。文政2年(1819)には、本居宣長に師事し、古典和歌を蒐(しゅう)集(しゅう)・研究した国学者・高(たか)井(い)八(やつ)穂(ほ)(生没年不詳)が、夷谷一帯に、「楽(がく)庭(にわ)櫻(おう)花(か)」、「藤谷(ふじがたに)藤(とう)花(か)」、「夷(えびす)川(がわ)螢(けい)火(か)」、「高(たか)城(じょう)秋(しゅう)月(げつ)」、「大(おお)平(ひら)峯(みね)雪(ゆき)」、「車(くるま)橋(ばし)夜(や)雨(う)」、「霊(れい)仙(せん)晩(ばん)鐘(しょう)」、「六(ろく)所(しょ)宮(ぐう)燈(とう)」の8つの優れた情景を見出し、和歌を添えて「夷谷八景」を称え、その風情は今日にまで伝えられている。 こうした古代以来の夷石屋に起源する中山仙境(夷谷)は、「中山仙境」とこれを挟んで臨む「東夷」と「西夷」の3つの地域から成る。 中山仙境は、中世以降において山岳修験の場となっていったと推定されるが、江戸時代以降において尾根筋の要所に石造物が据えられ、民衆に開かれた霊場として定着したものと考えられている。中山仙境の名称が人口に膾炙するようになるのは主として近代以降のことであり、大正12年(1923)の『西(にし)国(くに)東(さき)郡(ぐん)誌(し)』に初出を窺うことができる。 その風致景観は、丘陵を覆う樹叢から突き出て屹立し、尾根線上に連なる岩峰群によって特徴付けられ、今日において、それらは、七福岩、烏帽子岩、白岩、馬の背、高(たか)城(じょう)、大仏岩、窓岩などと称される。なかでも最高所となる高城(標高316.9m)の頂部からは、岩林ともいうべき風景を周囲に臨むとともに、遠く北東方には周防灘をも一眸に収め、展望の枢要を成す。 東夷は中山仙境の北東に位置し、竹田川右岸の河岸段丘上には、夷石屋根(こん)本(ぽん)院(いん)のあった地に夷(えびす)山(さん)霊仙寺、夷山実相院、六所神社の古刹が連担して、古くからの六郷山信仰の縁をよく伝え、その背後には中山仙境と谷を挟んで不動岩、くじら岩、高岩と呼ばれる岩峰が連なる。その対岸の中山仙境の麓には霊仙寺に関わる旧墓所があって、五輪塔をはじめとして200基を超える中世石造物群や磨崖連碑、磨崖五輪塔などが所在し、その前面には、高さ8m、差し渡り14m余りで縦に大きな割れ目のある巨石がある。西夷は中山仙境の南西に位置し、南北朝時代から室町時代にかけての道(どう)園(ぞの)線(せん)彫(ぼり)板碑(いたび)や梅ノ木磨崖仏などが中世以来の夷谷の信仰を伝えるとともに、江戸時代中後期において西国東地域に多くの石造物を遺し、仏師・石工として活躍した板井氏一族濫觴の地として知られる。西夷の竹田川支流の河畔にも、高さ9m、差し渡り13m余りで縦に大きな割れ目のある巨石があって、東夷のものとともに兄(きょう)弟(だい)割(わり)石(いし)と呼ばれ、その割れ目に入った人や鳥が閉じ込められるという民俗伝承が共有されてきたことから、中山仙境を挟んだ東夷と西夷の強い結びつきを今日に伝える固有の地物であると言える。 以上のように、中山仙境(夷谷)は、古代以来の夷石屋に起源し、屹立した岩峰群の連なりは東夷と西夷の双方に臨んでこの地域の優れた風致景観を固有に特徴付けているものであり、名勝に指定して保護を図ろうとするものである。