国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
文殊耶馬
ふりがな
:
もんじゅやば
解説表示▶
種別1
:
名勝
種別2
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時代
:
年代
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西暦
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面積
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478498.44 m
2
その他参考となるべき事項
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告示番号
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189
特別区分
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指定年月日
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2018.10.15(平成30.10.15)
特別指定年月日
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追加年月日
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指定基準
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五.岩石、洞穴
所在都道府県
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大分県
所在地(市区町村)
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保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
国東半島の北東部,東に向かって流れる富(とみ)来(く)川(がわ)の源流域に所在し,文殊山の中腹に位置する峨(が)眉(び)山(さん)文(もん)殊(じゅ)仙(せん)寺(じ)の境内地を中心として奇岩・岩峰群が峭(しょう)立(りつ)する風景である。
「紙(し)本(ほん)著(ちゃく)色(しょく)文(もん)殊(じゅ)仙(せん)寺(じ)境(けい)内(だい)図(ず)」(18世紀初頭)には,西方の文殊山頂を大嶽として最奥部に置き,並び立つ岩峰群に清(きよ)滝(たき)観音,紫(し)竹(ちく)観音,廣(ひろ)多(た)阿弥陀,竹(たけ)堂(どう)観音などが連なる様子のほか,本堂や背後の文殊岩,諸堂宇・塔頭の配置などが精緻に描かれ,北方を巡る牛(ぎゅう)角(かく),塀(へい)岩(いわ),笠(かさ)岩(いわ),そして,境内正面の東方に大(おお)ブク・小(こ)ブク,エボシ岩などの岩峰群などをも含めた広大な境域が示されている。
江戸時代中期の思想家・三(み)浦(うら)梅(ばい)園(えん)(1723~1789)は,天明5年(1785),文殊山に登ってその情景に深く感銘を受け,「眉の山集」(享和2年<1802>)において,獅(し)子(し)窟(くつ),甘(かん)露(ろ)門(もん),指(し)月(げつ)亭(てい),華(か)鯨(げい)楼(ろう),小(お)角(づぬ)祠(ほこら),龍(りゅう)王(おう)祠(ほこら),仙(せん)人(にん)掌(しょう),天(てん)女(にょ)洞(どう),十(じゅう)里(り)嶂(しょう),濯(たく)花(か)渓(けい),聴(ちょう)猿(えん)巌(がん),霊(れい)鷲(しゅう)巌(がん),小(おど)門(むれ)山(さん),玉(ぎょく)女(じょ)島(じま)からなる「峨(が)嵋(び)山(さん)十(じゅう)四(し)境(きょう)」を定めた。それらは,『大分縣社寺名勝圖録』(1904)にも示され,近代においても古刹の枢要として普及していたことを窺える。
古代以来の山岳寺院を中心とした奇岩・岩峰群からなる優れた風致景観で,近世・近代に見出された勝地の風情を今によく伝えることから,名勝に指定し保護するものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
国東半島の北東部,東に向かって流れる富(とみ)来(く)川(がわ)の源流域に所在し,文殊山の中腹に位置する峨(が)眉(び)山(さん)文(もん)殊(じゅ)仙(せん)寺(じ)の境内地を中心として奇岩・岩峰群が峭(しょう)立(りつ)する風景である。 「紙(し)本(ほん)著(ちゃく)色(しょく)文(もん)殊(じゅ)仙(せん)寺(じ)境(けい)内(だい)図(ず)」(18世紀初頭)には,西方の文殊山頂を大嶽として最奥部に置き,並び立つ岩峰群に清(きよ)滝(たき)観音,紫(し)竹(ちく)観音,廣(ひろ)多(た)阿弥陀,竹(たけ)堂(どう)観音などが連なる様子のほか,本堂や背後の文殊岩,諸堂宇・塔頭の配置などが精緻に描かれ,北方を巡る牛(ぎゅう)角(かく),塀(へい)岩(いわ),笠(かさ)岩(いわ),そして,境内正面の東方に大(おお)ブク・小(こ)ブク,エボシ岩などの岩峰群などをも含めた広大な境域が示されている。 江戸時代中期の思想家・三(み)浦(うら)梅(ばい)園(えん)(1723~1789)は,天明5年(1785),文殊山に登ってその情景に深く感銘を受け,「眉の山集」(享和2年<1802>)において,獅(し)子(し)窟(くつ),甘(かん)露(ろ)門(もん),指(し)月(げつ)亭(てい),華(か)鯨(げい)楼(ろう),小(お)角(づぬ)祠(ほこら),龍(りゅう)王(おう)祠(ほこら),仙(せん)人(にん)掌(しょう),天(てん)女(にょ)洞(どう),十(じゅう)里(り)嶂(しょう),濯(たく)花(か)渓(けい),聴(ちょう)猿(えん)巌(がん),霊(れい)鷲(しゅう)巌(がん),小(おど)門(むれ)山(さん),玉(ぎょく)女(じょ)島(じま)からなる「峨(が)嵋(び)山(さん)十(じゅう)四(し)境(きょう)」を定めた。それらは,『大分縣社寺名勝圖録』(1904)にも示され,近代においても古刹の枢要として普及していたことを窺える。 古代以来の山岳寺院を中心とした奇岩・岩峰群からなる優れた風致景観で,近世・近代に見出された勝地の風情を今によく伝えることから,名勝に指定し保護するものである。
詳細解説▶
詳細解説
文殊耶馬は、国東半島の北東部、東に向かって流れる富(とみ)来(く)川(がわ)の源流域に所在し、文(もん)殊(じゅ)山(さん)(標高614m)の中腹に位置する峨(が)眉(び)山(さん)文(もん)殊(じゅ)仙(せん)寺(じ)の境内地を中心として奇岩・岩峰群が峭(しょう)立(りつ)する風景である。輝石安山岩質凝灰角礫岩を基層とする境内地の植生は、国東半島において貴重なウラジロガシ―サカキ群集に特徴付けられる。 この地域は古くは霊鷲山(りょうじゅせん)と呼ばれ、国東半島において唯一、役小角(えんのおづぬ)開基の伝承を有し、天台宗の聖地、中国の五台山において吉祥大士(文殊菩薩)に類似の場所を問われて答えた小角が崛(そばだ)つ岩峰の袂を鑿(うが)って大士を迎え、堂宇を備えたのが始めと云う。一方で、六郷山寺院としては養老2年(718)の仁聞菩薩による開山を伝え、布教を司る末(すえ)山(やま)本(ほん)寺(じ)のひとつであるが、『六(ろく)郷(ごう)山(さん)諸(しょ)勤(ごん)行(ぎょう)幷(ならびに)諸(しょ)堂(どう)役(やく)祭(さい)目(もく)録(ろく)写(うつし)』(安貞2年〈1228〉)に記載は無く、『六(ろく)郷(ごう)山(さん)本(ほん)中(ちゅう)末(まつ)寺(じ)次(し)第(だい)幷(ならびに)四(し)至(し)注(ちゅう)文(もん)案(あん)』(建武4年〈1337〉)以降に初見されることから、中世以降になって六郷山寺院群に編入されたもので、古代においては山岳寺院として固有であったとも考えられている。永和年間(1375~1379)、順(じゅん)弘(こう)法(ほう)印(いん)住持のときに現在に至る境内地の枢要が整えられ、『文殊仙寺誌記』(文政9年〈1826〉)によれば、参道入口に立つ石造仁王像や、奥の院の行者窟に祀られている役小角石像の脇侍として据えられた五鬼と善鬼(後鬼と前鬼)の石像などもこのとき造られたものと記されている。 18世紀初頭に描かれたと推定される「紙(し)本(ほん)著(ちゃく)色(しょく)文(もん)殊(じゅ)仙(せん)寺(じ)境(けい)内(だい)図(ず)」には、西方の文殊山頂を大嶽として最奥部に置き、並び立つ岩峰群に清(きよ)滝(たき)観音、紫(し)竹(ちく)観音、廣(ひろ)多(た)阿弥陀、竹(ちく)堂(どう)観音などの名称を付しているほか、本堂や背後の文殊岩(標高約360m)、諸堂宇・塔頭などの配置やそれらの様子が精緻に描かれ、さらに富来川が成す谷を挟んで北方を巡る牛(ぎゅう)角(かく)、塀(へい)岩(いわ)、笠(かさ)岩(いわ)、そして、境内正面の東方に大(おお)ブク・小(こ)ブク、エボシ岩などの岩峰群などをも含めた広大な境域が示されている。 江戸時代中期の思想家で、医業に従事する傍ら、陰陽論や仏教思想に影響を受けつつ、国東半島を巡る自然観から条里学と呼ばれる独特な学問体系を築き挙げた三(み)浦(うら)梅(ばい)園(えん)(1723~1789)は、蕉(しょう)門(もん)十(じゅっ)哲(てつ)のひとり志(し)太(だ)野(や)坡(ば)(1663~1740)に師事したとも伝えられるほど俳諧に造詣が深かった父の義(ぎ)一(いち)(生没年不詳)の関係から、国東郷中田の一笑(いっしょう)らから俳諧の題目を求められた。天明5年(1785)、梅園は一笑らとともに文殊山に登って芭蕉の「枯れ枝」の発句を石碑に刻み、文殊仙寺を巡るその情景に深く感銘を受け、後に記した「眉(まゆ)の山(やま)集(しゅう)」(享和2年〈1802〉)に、獅(し)子(し)窟(くつ)、甘(かん)露(ろ)門(もん)、指月亭(しげつてい)、華(か)鯨(げい)楼(ろう)、小(お)角(づぬ)祠(ほこら)、龍(りゅう)王(おう)祠(し)、仙(せん)人(にん)掌(しょう)、天(てん)女(にょ)洞(どう)、十(じゅう)里(り)嶂(しょう)、濯(たく)花(か)渓(けい)、聴(ちょう)猿(えん)巌(がん)、霊(れい)鷲(しゅう)巌(がん)、小門山(おどむれさん)、玉(ぎょく)女(じょ)島(じま)から成る「峨(が)嵋(び)山(さん)十(じゅう)四(し)境(きょう)」を定め、一笑らの詠んだ句を添えた。それらは、『大分縣社寺名勝圖録』(明治37年〈1904〉)に所収の「文殊仙寺境内之圖」にも示され、近代においても古刹の枢要として普及していた様子を窺うことができる。 その主体を成す文殊仙寺境内は東向きを正面とし、文殊岩の袂に銅製の本尊文殊支利菩薩坐像を納める獅子窟の前面に宝永3年(1706)建築と伝えられる本堂を中枢とする。石造役(えんの)行(ぎょう)者(じゃ)像を収める行者堂に向かって線状に伸びる参道は300段余り(比高差約60m)の石段から成り、登り口に立つ2体一対の仁王像の間を通って、中腹の惣門(甘露門)に至る。惣門の右手(北側)の平場には客殿と庫裏が並び、さらに奥手には十王堂(天女洞)の岩陰がある。庫裏の北東方に伸びる尾根線上には鐘楼門(華鯨楼)が建ち、その下方にはいまも緑枝を伸ばして幹回り7mを測るケヤキの巨木が中世からの縁を伝える。鐘楼門の先、石垣を積んで造成した平場は高さ7mに及ぶ宝篋印塔(天保4年〈1833〉建立)が据えられ、左手に牛角と塀岩、右手に大ブクと小ブクを望む位置にある。惣門の左手(南側)には、急峻な山沿いに細い平場が伸び、斜面の高所には八大(はちだい)龍(りゅう)王(おう)殿(でん)(龍王祠)が祀られ、さらに進むと歴代住職の墓所に至る。惣門から登って奥の院に至ると、文殊岩が天高く聳え立ち、右手に本堂、正面に行者堂、そして、左上手には六所権現が最奥部を占める。こうした境内地の様子は、周囲に広がる奇岩群の風致景観とともに、中世以来、近世、近代を通じて育まれてきた古刹の名勝地たる風情をよく伝えており、近年では、文殊耶馬と通称されている。 以上のように、文殊耶馬は、古代以来の山岳寺院である文殊仙寺境内を中心とした奇岩・岩峰群から成る優れた風致景観であることから、名勝に指定して保護を図ろうとするものである。