国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
国府遺跡
ふりがな
:
こういせき
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
122
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
1974.06.25(昭和49.06.25)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2021.10.11(令和3.10.11)
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
藤井寺市惣社
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
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詳細解説
S52-06-033[[国府遺跡]こういせき].txt: 昭和49年6月25日史跡指定された国府遺跡は先土器時代にはじまり、縄文時代には大規模な集落が営まれ、70体以上の埋葬人骨の発見された墓地が営まれている。 また、弥生時代にも引きつづき顕著な集落が営まれるだけでなく、飛鳥時代には寺院の造立があり、また奈良朝には、国府が設置されるというように長期にわたり各種の遺構が極めて重複して形成された遺跡として著名である。追加指定する地域は、既指定地の西北隅に西接する地域であるが、昭和50年、大阪府教育委員会により発掘調査され、各期の遺構が複雑に重複する中で、国府に関連する奈良朝の遺構等の集中をみた地域である。 S46-5-114国府遺跡.txt: 国府遺跡は、大和川と石川の合流点の西方、沖積平野に向かって南方から突出した洪積台地の北端部に位置している。 遺跡地は、字「骨地」を中心として早くから人骨の出土が知られていたが、大正6年以来の発掘調査により、多数の埋葬人骨が発見され、甕被葬、抱石葬や〓(*1)状耳飾りをともなう人骨など、繩文式時代の葬法が明らかとなっているのをはじめ、弥生式時代についても知られている。また下層部からは、先繩文時代の石器も検出されているほか、この地は奈良時代の衣縫廃寺跡、国庁の所在地としても著名であるなど、わが国でも代表的な複合遺跡とされるものである。 指定するのは、これまでの調査結果からして繩文式時代の埋葬地が西向きの馬蹄形状に構成していると考えられるので、この埋葬地を中心とする地域である。 令和3年 追加指定 国府遺跡は、大和川の石川の合流点の西方、沖積地に向かって南方から突出した台地の先端に立地する、旧石器時代から弥生時代の集落や墓域、飛鳥時代から平安時代の寺院跡や官衙関連施設が確認された複合遺跡である。 本遺跡は明治22年(1889年)に『東京人類學會雑誌』で紹介され、大正6年(1917)には、京都帝国大学の濱田耕作によって初めての発掘調査が実施された。これ以降、現在までに大阪府教育委員会、藤井寺市教育委員会等によって15回の調査が実施されている。 これらの調査では、縄文時代前期および晩期に位置づけられる土壙墓、弥生時代の竪穴建物跡や甕棺墓を検出しており、確認された埋葬人骨は両時期合わせて90体に及び、縄文時代前期の人骨には玦状耳飾が伴う。また、遺跡東方の一角を占める衣縫廃寺跡は、法起寺式伽藍配置をもつと推定される寺院跡で、7世紀中ごろまでには創建されたとみられている。塔跡と東回廊が確認されており、塔跡は原位置をとどめると考えられる塔心礎が残存し、基壇は1辺12m四方の規模を持つ。遺跡の西方では、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物、井戸、溝等の遺構のほか、築地側溝が検出されている。築地側溝からは奈良時代の須恵器、土師器、瓦が出土しており、また周辺からは蹄脚円面硯も出土していることから河内国府関連の建物群である可能性が高い。 国府遺跡の利用は旧石器時代に遡り、縄文時代の墓域、弥生時代の集落と墓域、そして古代の衣縫廃寺と河内国府関連遺構など、場所を違えながら各時期の遺構が展開する重要な遺跡であることから、昭和49年に史跡指定され、同52年には追加指定された。今回、遺跡西方の河内国府の河内国府関連の施設が確認できている範囲のうち、条件の整った範囲を追加指定し、保護の万全を図るものである。
関連情報
指定等後に行った措置
1977.07.19(昭和52.07.19)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
1977.07.19(昭和52.07.19)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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異動種別3
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異動内容
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