国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
鳥取城跡
附太閤ヶ平
ふりがな
:
とっとりじょうあとつけたりたいこうがなる
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
91
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
1957.12.18(昭和32.12.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
1987.08.10(昭和62.08.10)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
鳥取県
所在地(市区町村)
:
鳥取市東町・栗谷町・百合
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
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詳細解説
天文14年山名誠通が居城天神山城の出城として築城したことに始まるといわれる。のちその部將武田高位叛して、これに據ったが、天正2年山名豊国、高信を封ち居城をここに移した。織田信長の中国経略に当り、山名豊国は毛利氏と絶って信長に降り出城したが、家臣等なおこれに據るものあり、毛利氏からは吉川経家入城し、かくて秀吉の攻囲を受けること3ヶ月余、遂に経家自刄して開城した。天正9年10月である。秀吉は、宮部善祥坊をここに置き、父子二代にわたったが、慶長5年関ヶ原役後、池田長吉は、西單に与した宮部氏の後を承けて城主となった。元和3年池田氏は備中松山に移り、池田光政代ってここに入ったが寛永9年岡山に移り、池田光仲岡山よりここに移封、爾後歴代相継いて明治維新に至った。 城は久松山とその山麓に営まれたものである。山は標高264メートル、東面背部が低い鞍部によって後山につづくのみで、急峻な独立状をなし、山頂は視野極めて広く、信長公記に「四方離れて嶮しき山城也」とあるのによくかなう。頂部は削平されて三郭より成る狹長な本丸があり、その一端に地階を有する天守台がある。急峻な坂路を西方に降れば、山麓に諸郭が構えられている。即ち坂路は先ず天球丸に達する。背後に崖を負い、諸郭中最も高く、その鋪設また厳重である。天球丸に向って左斜前方、一段低く二の丸が設けられ、更に三の丸が天球丸の前方、二の丸の右方に低く設けられ、この間二三の郭が階段状に附設されている。これらの郭を大きく覆って前面に丸の内の広い一郭があり、丸の内はその外側に内堀を帶び、北御門、中御門(大手門)、南御門の三門を開いている。また山の背面搦手にも虎口の固めがある。これらの遺構は、近世の修築を経たものであるが、その沿革を大観すれば、盖し久松山頂を中心とする中世の山城に始まり、近世に入って、その要害に即しつつ全体にわたって改修を施し、山麓の規模を拡大し、塁壁は石垣を以て堅めたものである。現在鳥取の震災による石垣の部分的な破損など幾多の変改はあるが、全体の規模はよく遺り、山陰地方の要衝に位し、戦国の世、名城と■われた面影は十分に偲び得られ、城郭史上価値ある遺跡である。 久松山の背面、東方約1500メートルを隔てて本陣山という241メートル余の高峯がある。久松山の搦手に相対し、久松山を指顧のうちに望み得られる。山頂部を太閣が平なると称し、削平された平地には、土塁をめぐらし、堀を設け、櫓跡の如き台地のある郭と馬場と称せられる郭などがある。秀吉の本陣といわれるが、信長公記の記事によく合致し、鳥取城攻囲に関連あるものとして、また対城の一遺構とも見られ、価値ある遺跡である。
関連情報
指定等後に行った措置
1987.08.10(昭和62.08.10)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
1987.08.10(昭和62.08.10)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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異動種別3
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異動内容
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