国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
求菩提山
ふりがな
:
くぼてさん
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
138
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2001.08.13(平成13.08.13)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
福岡県
所在地(市区町村)
:
豊前市大字求菩提・大字篠瀬・大字鳥井畑・大字岩屋・大字山内、築上郡築上町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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詳細解説
求菩提山は,福岡県東部,瀬戸内海の周防灘に面し,大分県と県境を接する豊前市に所在する標高782mの山であり,平安時代後期以降全国的に展開した修験道の山のひとつである。 求菩提山の歴史は,『求菩提山縁起』によると,猛覚魔卜仙が継体天皇20年(526)開山したとし,養老4年(720)には僧行善が求菩提山護国寺を開いたとされているが,遺物等から確認できるのは,平安時代後期の僧頼厳の時からである。頼厳とその弟子が勧進した康治元年(1142)の紀年銘のある国宝「銅板法華経」と「銅筥」は,当時の求菩提山の活動の様子を知る上で貴重である。この時期に堂社の修復や多宝塔の建立が行なわれたとされる。また,この時期には盛んに埋経が行われ,経塚の発掘調査の結果,保延6年(1140)銘を含め17口に及ぶ銅,陶製の経筒が出土しており,「豊前求菩提山経塚出土品」として重要文化財に指定されている。求菩提山は,中世以降修験道の山として組織も確立していったが,15世紀末には天台宗修験を統括した聖護院の末となり,中央の修験道本山派の修験組織に組み込まれていった。一時一山500坊といわれた求菩提山であるが,中世末の戦乱期を境に減少し,江戸期には一時復興したが,明治元年の神仏分離・廃仏毀釈により,寺を廃し国玉神社として出発した。 主な遺跡としては,山の八合目には山門・講堂・山王社・常行堂・浮殿などが所在する護国寺があったとされ,現在は国玉神社の中宮の建物がある。また,山頂には磐座を物語る巨石群があり,この周辺の発掘調査により多くの経塚が確認されている。また,修験道遺跡の特徴である修行のための窟が、山内には多数所在し,求菩提五窟といわれる大日窟(金剛窟)・普賢窟(胎蔵窟)・多聞窟・吉祥窟・阿弥陀窟や不動窟・弁財天窟・岩洞窟などが確認されている。普賢窟からは,銅板法華経が大永年間(1521〜28)に出土するなど,窟は求菩提山の修験道を語る上で重要なものである。 山内には,坊中と呼ばれる修験者の集落が,上谷・杉谷・南谷・西谷・中谷・北谷・下谷の7ケ所あり,山の斜面を階段状に切り開き,石組みで構築しているが,現在は一坊を残すだけである。また,参道は東西に走っており,山麓の入り口に大鳥居があった。 なお,山の北東に位置する場所には,銅板法華経の執筆僧の一人である厳尊も住していたことが知られ,求菩提山の写経所的役割を担ったとされる常在山如法寺が置かれた。 平安時代後期以降全国に展開した修験道の遺跡として求菩提山は,山内に豊富な遺跡を抱え,出土遺物や文字資料からも当時の活動を伺い知ることが出来,かつ遺構も良好に保存されており,修験道の遺跡として貴重であり,窟群や如法寺とともに史跡に指定し保護しようとするものである。