国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
明石城跡
ふりがな
:
あかしじょうあと
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詳細解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
142
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2004.09.30(平成16.09.30)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
兵庫県
所在地(市区町村)
:
明石市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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詳細解説
明石城跡は、近世、京・大坂の西に近接する山陽道筋にあたり、南は明石海峡に面する水陸交通の要衝に立地することから、江戸幕府により西国諸藩に対する押さえの地として重要視され、歴代、譜代・親藩大名が明石の地に封ぜられた。 元和3年(1617)、小笠原忠真が大坂夏の陣の戦功によって、信濃国松本から明石に10万石をもって国替えとなり、現在の明石城跡より南西約1kmにあった船上城に入城して、明石藩が成立した。翌年忠真は、将軍徳川秀忠から新城造営を命ぜられると、六甲山系が西に延び、明石川に区切られた台地の突端部に位置して戦略上の要地である人丸山を選んだ。幕府は普請費用として銀千貫目を与えた。 元和5年(1619)正月、幕府の普請奉行派遣のもと石垣普請が開始され、本丸、二ノ丸等の石垣、三ノ丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請は同年8月中旬に終わった。同年9月から櫓、御殿、城門、塀等の作事が始められ、その用材は廃城となった三木城、船上城等の資材が用いられたという。本丸の四隅に艮・巽・坤・乾の三層の隅櫓が建てられ、東・南・北には一重の多聞が築かれた。当初の坤櫓は伏見城の櫓を、また巽櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられる。元和6年(1620)4月に造営を終え、忠真は船上城から新城に移った。 築城当初の縄張り図として「播磨国明石新城図」(『小笠原忠真一代覚書』)が伝存する。本丸の東側に二ノ丸、三ノ丸(後の東ノ丸)を配し、本丸と二ノ丸との間には土橋を設け、本丸を独立させていた。本丸には当初御殿が置かれ、本丸西端に東西13間、南北11間の天守台が設けられたが、天守は築かれなかった。本丸西側の高石垣下に西ノ丸(後の稲荷曲輪)、その西に捨曲輪(後の山里曲輪)を置いた。本丸、二ノ丸、三ノ丸の南面に大曲輪を設け、下屋敷と家老等の屋敷を作った。大曲輪を取り囲むように堀と土居が西、南、東に巡り、それぞれ枡形が開く。城の北側は、自然地形の谷を堀として利用し、これを鴻ノ池(後の剛ノ池)と繋ぎ、ほぼ四周を水堀で縄張りしていた。城郭の外側には東、南、西に武家屋敷が展開する外曲輪があり、外周に外堀が巡る構造であった。寛永8年(1631)の失火後、本丸御殿は再建されず、三ノ丸の居屋敷を御殿に代用し、本丸の四隅櫓は建て直し、塀で繋いだとされる。資料として正保城絵図等の史料が伝来する。 寛永9年(1632)に小笠原忠真が豊前小倉藩に転封した後、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家を経て、天和2年(1682)に越前松平家が入封して明治維新に至った。明治6年(1873)廃城令によって官営地となり、明治16年に旧藩士が出願して私立明石公園となったが、明治31年(1898)に城跡全体が御料地に編入された。大正7年(1918)、兵庫県が本丸付近を宮内省から借り受け県立明石公園が誕生し、その後御料地全域の払い下げを受け、昭和7年(1932)にほぼ現在の明石公園の規模となった。現在、本丸等の石垣、大曲輪の堀等が良好に残り、巽櫓、坤櫓(ともに重要文化財)が現存し、県立明石公園として市民に親しまれている。 このように、明石城は、西国諸藩に対する備えとして交通上・軍事上の要衝の地である明石の地に造営された、近世を代表する城郭の一つであって、遺構等が良好に残存しており、我が国近世の歴史を理解する上で貴重である。よって史跡に指定しその保護を図ろうとするものである。