国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
坂戸城跡
ふりがな
:
さかどじょうあと
坂戸城跡
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
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特別区分
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指定年月日
:
1979.03.12(昭和54.03.12)
特別指定年月日
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追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
新潟県
所在地(市区町村)
:
南魚沼市坂戸
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
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管理団体・管理責任者名
:
坂戸城跡
解説文:
城跡のある坂戸山(標高634メートル)は、新潟県の東南部、南魚沼郡のほぼ中央にあり、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす地点に位置する。中世、魚沼郡南部には上田荘があって、鎌倉時代ごろには新田氏一族の支配下に入っており、その頃には、荘の中心地を扼す坂戸山に城郭が築かれていたものと思われるが、本格的な造営は南北朝時代になってからのことである。すなわち、この時代の動乱に際し、北朝方に立った上杉氏は、越後南部から南朝方である新田氏らを逐い、憲顕の時、越後守護となるが、上杉氏の家臣長尾高景の一族のものが、文和年間(1352~1355)に上田荘を領することとなり、坂戸山を居城にしたとされる。
これ以後、上田荘の長尾氏(上田長尾氏)は、守護代の長尾氏と並んで、越後国に重きをなし、その居城である坂戸城は、越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。守護代長尾氏は為景の代に、越後の国人層を糾合して永正4年(1507)守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510)には関東管領上杉顕定を長森原に敗死させ越後一国を掌握するが、この過程で、上田長尾氏は守護代長尾氏に対して独自性を保持したものの、為景の死後景虎(上杉謙信)が国主となるに及び、天文20年(1551)に上田(長尾)政景は景虎に誓詞を提出し、臣下の礼をとるに至った。
謙信の死後、政景の子で、謙信の養子となっていた景勝が春日山城主になると、上田荘出身の「上田衆」が景勝の直臣団を構成するとともに、坂戸城は、春日山城の有力な支城として領国経営の要所となった。慶長3年(1598)、景勝は会津に移封となり、替って越前から堀秀治が入部すると、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入り、上田で3万石を領した。慶長15年(1610)直寄が信濃国飯山に移された後は、坂戸城は廃絶された。
坂戸山は魚沼盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって半島状に突出しており、北・東・西の三方は急峻をなし、西裾の魚野川が自然の防禦線となっている。西麓の緩斜面地に、城主の居館跡と家臣屋敷跡があり、東西110メートル、南北80メートルの城主居館跡周囲は土塁がめぐり、特に西側正面には、高さ約2メートルの石垣が良好に残存している。なお、家臣屋敷跡の前面、魚野川との間に「[[埋田]うめた]」と呼ばれる堀跡が残っている。城主居館跡の南方、薬師尾根の中腹には「中屋敷」跡とされる東西40メートル、南北50メートルの区画があり、また、居館跡から東方、山上の尾根に向かう大手道を上った桃の木平には東西30メートル、南北120メートルの「上屋敷」跡がある。
山頂には「本丸」といわれる平坦地があり、ここから北へ延びる尾根上に「二の丸」「三の丸」等の主要郭跡が残っているほか「本丸」から東南搦手方向にも郭跡がみられる。この東南尾根の先端、標高631メートルのところに、「詰の丸」と呼ばれる平坦地があり土塁が残存している。なお、山上尾根の要所に大規模な堀切りがあり、また、「本丸」東方斜面には石垣が残存する。このほか、山頂から西南に派生する尾根の標高500メートル附近に「西の丸」跡があり、ここから尾根先端、寺ヶ鼻の「出丸」跡までの約2キロの間に100基以上の〓(*1)が築かれているのが注目される。
以上の城郭遺構は、基本的には上田長尾氏時代の後期、16世紀後半に完成したと思われる繩張りを示すものと見なしうるが、総じて中世山城の典型的な姿を良くとどめており、しかも、山頂「本丸」跡附近や城主居館跡に残る石垣は本遺跡の顕著な遺構である。よって、その歴史的重要性を併せ勘案し、史跡として指定するものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
坂戸城跡
写真一覧
坂戸城跡
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解説文
城跡のある坂戸山(標高634メートル)は、新潟県の東南部、南魚沼郡のほぼ中央にあり、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす地点に位置する。中世、魚沼郡南部には上田荘があって、鎌倉時代ごろには新田氏一族の支配下に入っており、その頃には、荘の中心地を扼す坂戸山に城郭が築かれていたものと思われるが、本格的な造営は南北朝時代になってからのことである。すなわち、この時代の動乱に際し、北朝方に立った上杉氏は、越後南部から南朝方である新田氏らを逐い、憲顕の時、越後守護となるが、上杉氏の家臣長尾高景の一族のものが、文和年間(1352~1355)に上田荘を領することとなり、坂戸山を居城にしたとされる。 これ以後、上田荘の長尾氏(上田長尾氏)は、守護代の長尾氏と並んで、越後国に重きをなし、その居城である坂戸城は、越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。守護代長尾氏は為景の代に、越後の国人層を糾合して永正4年(1507)守護上杉房能を排斥し、永正7年(1510)には関東管領上杉顕定を長森原に敗死させ越後一国を掌握するが、この過程で、上田長尾氏は守護代長尾氏に対して独自性を保持したものの、為景の死後景虎(上杉謙信)が国主となるに及び、天文20年(1551)に上田(長尾)政景は景虎に誓詞を提出し、臣下の礼をとるに至った。 謙信の死後、政景の子で、謙信の養子となっていた景勝が春日山城主になると、上田荘出身の「上田衆」が景勝の直臣団を構成するとともに、坂戸城は、春日山城の有力な支城として領国経営の要所となった。慶長3年(1598)、景勝は会津に移封となり、替って越前から堀秀治が入部すると、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入り、上田で3万石を領した。慶長15年(1610)直寄が信濃国飯山に移された後は、坂戸城は廃絶された。 坂戸山は魚沼盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって半島状に突出しており、北・東・西の三方は急峻をなし、西裾の魚野川が自然の防禦線となっている。西麓の緩斜面地に、城主の居館跡と家臣屋敷跡があり、東西110メートル、南北80メートルの城主居館跡周囲は土塁がめぐり、特に西側正面には、高さ約2メートルの石垣が良好に残存している。なお、家臣屋敷跡の前面、魚野川との間に「[[埋田]うめた]」と呼ばれる堀跡が残っている。城主居館跡の南方、薬師尾根の中腹には「中屋敷」跡とされる東西40メートル、南北50メートルの区画があり、また、居館跡から東方、山上の尾根に向かう大手道を上った桃の木平には東西30メートル、南北120メートルの「上屋敷」跡がある。 山頂には「本丸」といわれる平坦地があり、ここから北へ延びる尾根上に「二の丸」「三の丸」等の主要郭跡が残っているほか「本丸」から東南搦手方向にも郭跡がみられる。この東南尾根の先端、標高631メートルのところに、「詰の丸」と呼ばれる平坦地があり土塁が残存している。なお、山上尾根の要所に大規模な堀切りがあり、また、「本丸」東方斜面には石垣が残存する。このほか、山頂から西南に派生する尾根の標高500メートル附近に「西の丸」跡があり、ここから尾根先端、寺ヶ鼻の「出丸」跡までの約2キロの間に100基以上の〓(*1)が築かれているのが注目される。 以上の城郭遺構は、基本的には上田長尾氏時代の後期、16世紀後半に完成したと思われる繩張りを示すものと見なしうるが、総じて中世山城の典型的な姿を良くとどめており、しかも、山頂「本丸」跡附近や城主居館跡に残る石垣は本遺跡の顕著な遺構である。よって、その歴史的重要性を併せ勘案し、史跡として指定するものである。